八九六四
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猟奇!暴行事件 (1980) Banmei Takahashi
Internet Archive · pinku-eiga-society·2026-07-30·Banmei Takahashi

猟奇!暴行事件 (1980) Banmei Takahashi

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面對國家的暴行,沉默是最大的共犯。

清晰度:
猟奇!暴行事件 (1980) Banmei Takahashi

闇の深淵に蠢く絶対的「個」の暴走――高橋伴明『猟奇!暴行事件』論序説:日本映画史の「最も黒い血」として1980年という季節は、日本映画にとって決定的な転換期であった。かつて時代の最前線で政治と性を攪拌し続けたピンク映画、あるいは日活ロマンポルノといった成人映画の輪郭が、時代の変遷とともに徐々にその牙を失い、記号化された消費の闇へと回収されつつあった時代。その黄昏の入り口において、まるで時代の全否定を突きつけるかのように映画界の荒野に放たれた、文字通り「最低最悪」の獣がいた。高橋伴明監督、西岡琢也脚本による映画『猟奇!暴行事件』である。

本作は、観る者の倫理、道徳、そして映画という表現に対する欺瞞的な信頼のすべてを根底から叩き潰す。ピンク映画というジャンルにおいて、劇場の看板に掲げられた煽り文句――「異常!欲情!暴力! 肉体を踏みにじる非情な歓喜!!」「犯しながら首を絞める異常快感の虜になった男の狂気!」――といった言葉が、これほどまでに一寸の狂いもなく、文字通りに、あるいはそれ以上の純度をもって具現化された例は極めて稀である。

なぜならここには、よくあるロマンティシズムも、犯罪者の生い立ちに対する同情的な免罪符も、そして「社会が彼を狂わせた」というお決まりの左翼的知識人風の言い訳も、一切存在しないからである。あるのはただ、生身の肉体を持った一人の男が、己の空腹を癒やし、金を欲し、女の肉体を貪り、そして呼吸を奪うという、極めてプリミティブかつ単細胞的な欲望の連鎖のみである。この映画が描くのは、ダークサイドに堕ちる青年の悲劇ではない。初めから救いようのない暗黒そのものである男が、都会という無機質なコンクリートのジャングルに放たれ、その牙を剥き出しにする全記録なのだ。

のちに『TATTOO<刺青>あり』などで実録犯罪映画の金字塔を打ち立てる高橋伴明が、その作家性の最も原初的かつ過激なインパルスを爆発させた本作は、現代の、たとえばNetflix等で安易に消費される実録シリアルキラーものの生ぬるさを一撃で粉砕する。観客の倫理観に揺さぶりをかけるどころではない。これは、スクリーンから観客の顔面に直接浴びせられる、文字通りの精神的暴行である。第一章:故郷の喪失と「悪の胚胎」映画の冒頭、私たちの鼓膜を揺さぶるのは、押しつぶされそうなほどのセミの鳴き声と、画面いっぱいに広がる緑豊かな自然、山々、そして泥にまみれた畑である。

どこにでもある、あまりにも日本の原風景的な田舎。だが、その瑞々しい緑を切り裂くようにして、一人の男の耳障りな歌声が響き渡る。「故郷を出る時ゃ 胸をはり 男一匹 やる気もあった それが落目の軒下仁義 なんで読めよか故郷だより」男の名はカタヤマ・ヤスオ(下元史朗)。ムショ帰りの前科者。彼ががなり立てる大川栄策の「八九三無情」のメロディは、男がまとう圧倒的な「無教養」と「前時代的なドス黒さ」をこれ以上ないほど雄弁に物語る。そこらへんの林でおもむろに立小便をするカタヤマの姿には、文明のルールなど微塵も通用しない粗野な野獣の佇まいがある。

カタヤマは、実家の民家の引き戸をガラリと開ける。そこに待っていたのは、キャミソール姿の妹(豪田路世留)だ。「そんなカッコでうろつくなや。嫁入り前だろ」というカタヤマの言葉には、肉親への情などではなく、単なる性的な視線のねじれが混じる。妹の冷淡な態度、そして「もうこれ以上迷惑かけないで」という拒絶の言葉から、このカタヤマという男が過去にどれほどの害毒を周囲に撒き散らしてきたかが瞬時に理解される。両親の所在を尋ねても「年寄り二人で狭い畑いじりまわしとるわ」と吐き捨てる妹にとって、この兄の帰還は恐怖と嫌悪の対象でしかない。

ここで高橋伴明のカメラは、カタヤマの徹底的な「覗き」の視線を捉える。妹とその婚約者(大杉漣)が営む密やかなセックス。それを襖越しの穴からじっと見つめるカタヤマの眼光は、単なる好色を通り越して、他者の生を侵食せんとする獣のそれである。国土館大学の尾崎君ばりに自らの右手のスピードを狂ったように速め、パンツの中に射精する。この時の下元史朗の、一切の理性を放棄したかのような「顔面」の凄まじさ。吉村新喜劇を思わせるコテコテの本場関西弁を操りながら、その実、瞳の奥には完全に光が消えている。

妹を肴にした自慰行為の後、下半身裸のまま「俺のパンツないねんけどなぁー」と呟き、タンスを勝手に開けて妹のパンツを引っ張り出し、「まあ、ええか」と何食わぬ顔でそれを自らの股間に穿き込むカタヤマの姿は、滑稽であると同時に背筋が凍るような異常性を放つ。さらに「悪口言うたバチや」と、神聖であるべき仏壇から小銭や現金をくすねる。彼にとって、家族も、神仏も、倫理も、すべては己の欲望を満たすための「餌」に過ぎないのだ。かくして、自らのルーツであるはずの故郷を徹底的に汚し、剥ぎ取れるだけのものを剥ぎ取った野獣は、電車に揺られて都会へと向かう。

それは、新たな獲物が群生する、欲望の都への進撃であった。第二章:大都会のネオンと「最初の獲物」「東京の最初の晩はえらい雨だった」カタヤマの無機質なモノローグとともに映し出されるのは、1980年当時の、爛れた活気に満ちた新宿・歌舞伎町の夜である。雨に濡れたアスファルトに反射する猥雑なネオン。今は亡き伝説の映画館「歌舞伎町日活」の看板には『元祖大四畳半大物語』の文字が躍り、その隣のロードショー館では『二百三高地』や『ニューヨーク・ニューヨーク』が上映されている。激動する昭和の映画史の墓標のような景色の中を、カタヤマは徘徊する。

画面に次々と現れる風俗街の看板群――「フレッシュサロン女学園」「壁の穴」「珈琲館」「フロンティアランド」「純喫茶らもう」「元禄寿司」「大衆割烹江戸っ子」。これらは単なる時代風俗の記録ではない。カタヤマという純粋な悪を迎え入れる、巨大な消費の臓物、都市の物象化されたエロスそのものである。カタヤマが流れ着いたバーのカウンター。そこで彼は、後に彼の運命(あるいは彼がもたらす破滅)の軸となる女、スミコ(橘雪子)と出会う。

マスター(岩手太郎)の出すロックグラスを奪い取るようにして飲み干すスミコは、カタヤマの貧相な佇まいを見透かすように「飲みすぎると使い物にならなくなるわよ、あとで二人でいいことしない?」と妖艶に囁く。橘雪子といえば、後年の成人映画等で見せる「未亡人下宿」シリーズなどの優しく包み込むようなママのイメージが強烈だが、本作における彼女は、都会の泥をすすって生きる肉感的な悪女のオーラを放っており、観る者を狂わせる圧倒的な白い肉体の魅力に満ちている。

脚本家デビュー前の荒井晴彦すらもゾッコンだったという当時の下元史朗の証言が示す通り、この時の橘雪子が放つ淫靡なフェロモンは画面を完全に支配している。二人が向かったラブホテルの部屋。当時、最先端の風俗的装置であった「回転ベッド」に直面したカタヤマの「なんやこれ?どないしたらいいねん」という狼狽は、彼がいかに地方のドブ底から這い上がってきたかを露呈させる。 「ねえ?嫌なこと先に済ましちゃわない?」とビジネスライクに事を進めようとするスミコが提示した二本指(2万円)に対し、カタヤマは対抗するように指を三本突き出す。「これでええや」「あんたって男らしいのね」。

だが、服を脱いだカタヤマが穿いていたのは、あの妹のファンシーなパンツである。「なぁにそれ!」と爆笑するスミコに、カタヤマはばつが悪そうに「慌ててもうたから妹のを履いてきてもうた。ああカッコ悪う」と返す。この一瞬の疑似的なアットホームさ、都会の冷たさの中で不意に生じた変則的なユーモアに、スミコは毒気を抜かれる。「あんたって変な人ねぇ。でも好きよ、あんたみたいな人」。「私ね、スミコって言うの」 「俺、カタヤマや」互いの名を交わし、豊満な乳房をわしづかみにしながら交わされる熱い口づけ。カタヤマはスミコの股間に顔をうずめ、「ええ匂いやな。香水か」と歓喜する。

しかし、長年の刑務所暮らしによるブランクか、あるいは過剰な興奮ゆえか、カタヤマのペニスは中折れしてしまう。「堪忍やで・・・久しぶりやったさかい」。 それに対し、スミコは責めることなく「いいのよ・・・」と口での奉仕を始める。カタヤマの顔に浮かぶ、オナニーでは決して味わえなかった本物の他者の肉体という快楽を噛みしめる表情。そして、スミコが上に乗る女上位でのねじれたセックスへと移行する。甘い喘ぎ声を漏らし、激しく息を弾ませるスミコの爆乳を、下から狂ったように舐め上げるカタヤマ。「カタヤマさん、好きよ好きよ」「俺もうあかん・・・」。

翌朝、ホテル街(「パルコ」「青香」「ホテル東立」の看板)から出てくる二人は、まるで本物の恋人同士のようであった。カタヤマのモノローグが重なる。 「スミコはええ女や。最高の女やった・・・俺はスミコの体の隅々まで知った。もう忘れられへん。朝まで俺らはちょっと年のいった恋人同士だった。もういっぺん抱かれたいとスミコは言いよった。俺はその約束を必ず守る」手を振って別れるスミコ。カタヤマは彼女の姿に完璧に魅了されている。しかし、彼が後ろを向いた瞬間、スミコが浮かべる「しつこい奴…」という冷酷なあくび。

この一瞥のカットの冷たさこそ、高橋伴明監督が仕掛ける容赦のない現実の対比である。カタヤマの妄執は、この女の軽薄な一言によって、決定的な暴走のレールへと乗せられるのである。第三章:尾行、覗き、そして「死体への凌辱」金がない。スミコに再び会うためには、何よりも現金が必要だ。 公園の蛇口の水で、剃刀負けを起こしながら唾液を交えて髭を剃るカタヤマの姿は、すでに都市の難民であり、飢えた狼そのものである。 「朝飯、牛丼300円。赤だし50円。昼飯、寿司弁当280円。それから串と鏡と剃刀を買うた。360円。だから残り720円。金欲しいな。晩飯食うたら終わりや。

スミコに会いたいし。金欲しいな」この、あまりにも即物的な金額の羅列。カタヤマの脳内は、生きるための最小限のコストと、スミコの肉体への渇望だけで満たされている。そこに通りかかる、若く瑞々しいアベック(ナオキ:宮田諭、女:沢木ミミ)。カタヤマは本能的な嗅覚でその後を尾行する。アパートの一室に入っていく若い二人。松山千春の甘やかな名曲「君が好きさ」が流れる中、窓の外から寿司弁当を貪り食いながら情事を覗き見るカタヤマの視線が重なるという、この狂った映画的コントラスト。「ガキのくせにええとこ住んでるなあ」。

部屋の中の会話は、若さ特有の他愛のなさと軽薄さに満ちている。「来年はハワイ連れてってやるよ」というナオキに、「何がハワイじゃ」と毒づくカタヤマ。ナオキの背中の毛を戯れに食べる女の「ナオキのものなら何でも好きだもん」という言葉に、「変態か・・・こいつら」とカタヤマは呆れるが、真の変態、真の怪物は窓の外から彼らを狙っているのだ。アベックのまぐわいは激化する。シックスナインの体勢から、ナオキのモノを熱心に口に含んでしゃぶる女。その様子をベランダの窓にべったりと顔を貼り付け、己のペニスをシゴくカタヤマ。

女が口内射精を受け入れ「美味しかった」と微笑む瞬間の、圧倒的な生のエネルギー。夜が更けても彼らのエロスは止まらない。顔面騎乗、汗だくで秘所を舐め上げるナオキ、日焼けした乳房が汗で怪しく光る。ベランダで息を潜めるカタヤマにとって、この部屋は単なる強盗の対象ではない。自らが排除された「幸福な生」の象徴であり、それを徹底的に破壊することへの衝動が、彼の内なる獣を目覚めさせる。情事が終わり、ナオキがパンツ一丁で部屋から出ようとしたその瞬間、闇から現れたカタヤマの手元で、黒電話の受話器が鈍い音を立ててナオキの頭部を直撃する。

「なんでもやる」という必死の命乞いなど、カタヤマの耳には届かない。容赦のない打撃。床は一瞬にして鮮血に染まり、ナオキは撲殺される。 パニックを起こす女。カタヤマはその場にあった黒電話のコードを女の首に巻きつけ、力任せに締め上げる。「しょうもないこと電話したらあかん・・・」。その言葉の冷酷さ、圧倒的な実用性。女は悶絶の末に息の根を止められ、部屋には二つの生々しい死体が転がることとなる。ここからの展開こそ、本作が日本映画史における倫理の限界点を突破する瞬間である。 盗んだ財布の中身を漁るも「なんや・・・」と、期待外れの少額に舌打ちするカタヤマ。

しかし、彼の視線が、床に横たわる女の死体へと注がれた時、脳内の狂気のスイッチが完全に切り替わる。 女は、死んでもなお目を見開いたままだ。カタヤマはその硬直の始まりかけた両足を持ち上げ、股間から手をおもむろに滑らせ、やがてその冷たくなりゆくパイオツを吸い出し始める。画面に響き渡る、ドン……ドン……という、不穏極まりないドラムパーカッションの重低音。片方の乳房から徐々に下に這い、ふたたびマンコへと向かうカタヤマの指。そして、満を持しての挿入。 この時のカタヤマの表情を、カメラは執拗なアップで捉える。

まるでブルース・リーが戦いの最中に見せるような、全神経を集中させた怒張の形相。対する女の肉体は、完全に生気を失ったマネキン、マグロ、あるいはAV女優の薬師丸ひろ美のように無反応である。 「ええなあ・・ごっつうええなあ」屍姦――死体愛好(ネクロフィリア)の快楽に、カタヤマは完全に覚醒する。抵抗もしない、文句も言わない、ただ己の欲望を無限に受け止めるだけの肉の器。カタヤマは激しく腰を振り、死の淵へと沈んだ肉体の中へと、どぴゅっと中出しを果たす。この一連のシークエンスにおける、凄まじいまでの即物性とグロテスクなエロティシズムは、観る者の胃腑を激しく揺さぶる。

翌朝、二人の凄惨な死体を横目に、鏡を見ながら平然とネクタイを締めるカタヤマの姿には、一切の罪悪感の欠片もない。 「収穫、現金1万3500円。持ち金45円足して、1万3545円。朝飯昼飯腹いっぱい。それから使い古しの嫁はん、脂のノリが悪かったけど、なんとか食えた。それから寸足らずのズボン一丁、ワイシャツネクタイ。スミコに会いたいなあ」彼にとって、人間の命を奪うことも、その死体を犯すことも、すべては「収穫」という経済的・肉体的帳簿の1ページに過ぎないのだ。

第四章:拒絶と「親子丼」という名の地獄絵図小綺麗な、しかし下品なネオンが光る歓楽街の「ホテルカサブランカ」の看板。カタヤマは再び、あのバーでスミコと落ち合う。手に入れたばかりの血塗られた金を見せびらかすように。 「あんなあ、1万3500円あんねん。出えへんか」しかし、都会の現実的な娼婦であるスミコは冷淡だ。 「あのねえ、あんたの気持ちは嬉しいわよ。でもさ、ホテル代払ったら大して残らないじゃないの」

そこに、別の客(パパイヤ鈴木に似た、いかにも羽振りの良さそうな男)からスミコを呼ぶ声がかかる。「ねえ出ません?」「そうだね」。スミコはカタヤマの隣を通り過ぎる際、事務的に「またね」と言い残して去っていく。残されたカタヤマは、やけ酒をあおる。「酒くれや」「おかわりや」。マスターの「もうよしたほうがいいんじゃないんですか?」という忠告も無視して浴びるように飲むカタヤマの脳裏に、凄まじい嫉妬と劣等感からくるイメージショットが去来する。 ホテルのベッドの上、あのバーのマスターに激しく抱かれ、狂ったように喘ぐスミコの姿。

両手に余る爆乳をこれでもかと揉みまくるマスターの幻影。カタヤマの脳内は、己が手に入れられないエロスへの憎悪でパンク寸前となる。夜、小田急線の路面電車が通り過ぎる街頭。カタヤマはおにぎりを歩きながらぱくついている。 「えらい二日酔いやった。朝飯食えず、やっとおにぎり3個押し込む。180円。残り2475円」再び始まる、底辺のコスト計算。そんな彼がふと立ち止まったのは、ある幸福そうな民家の前であった。窓の隙間から漏れてくるのは、「マリちゃん(五月マリア)、準備できたわよ」「はーい」という温かい声。 その夜は、娘マリちゃんの18歳の誕生日であった。

部屋の中では、パパとママ(青野梨魔)がハッピバースデーを歌っている。「お父さん、17っていうと、私がお父さんがお嫁に来た年ですよ。ボーイフレンドはいるの?今度連れてらっしゃいね。どんな人?」。その、日本の戦後中流階級が築き上げた絵に描いたような「幸福」の団欒のすぐ外側、地べたにうんこ座りをしたカタヤマが、暗闇の中でサンドイッチを貪り食っている。 「晩飯、野菜サンド150円。たまごサンド、160円、残り2165円」

この、圧倒的な格差。社会の光の中にいる家族と、その光を外側から呪うように見つめる、残り二千円足らずの現金を握りしめた怪物。高橋伴明の演出は、ここで社会派的な告発を行うのではない。ただ、この二つの決定的な「断絶」を並置することで、これから起こる悲劇の不可避性を際立たせる。夜が更け、パパとママが寝静まった寝室。枕元には目覚まし時計。おどろおどろしいBGMが静かに鳴り響く中、カタヤマはすでに家の中へと侵入している。 彼の手には、アイスピックのような鋭利な刃物が握られている。カタヤマは躊躇なく、熟睡するパパの喉仏に向けてその刃を思いっきりぶっ刺す。「うっ!

」という短い絶命の声。瞬殺である。そして、夫の死体のすぐ隣で眠るママの、形のいいオッパイをおもむろに揉み始めるカタヤマ。服を剥ぎ取り、右手で冷酷に手マンを始める。その異常な感触に気づき、飛び起きたママの首を、カタヤマは狂暴な力で絞め上げ、即座に殺害する。パンツを脱がし、待っていたのは、あのアベックの夜と同じ、地獄の屍姦の再現である。衣服を剥ぎ取られたママの死体に挿入し、意外と豊満なその乳房を激しく吸い、唇を激しく吸い出したその瞬間、室内にジリリリリリ!!と爆音が鳴り響く。目覚まし時計のタイマーだ。 「何でこんな時間に・・・」

慌てて時計を止めるカタヤマ。しかし、そのけたたましい音は、別室で寝ていた18歳の娘・マリちゃんを呼び寄せてしまう。暗闇の中、両親の寝室に入ってきたマリちゃんに対し、カタヤマは刃物を突きつけ「声出したらあかんで・・・」と脅す。そして、怯えるマリちゃんの日焼けした美しいオッパイを揉み出し、パンツの上からその股間を執拗に触り始める。割れ目に沿って、ヌルヌルと指を滑らせてなぞる。 恐怖と生理的な嫌悪から、マリちゃんの股間から漏れ出す尿とおつゆ。愛液と排泄物が混ざり合い、カタヤマの指を濡らしていく。「やめて!」「アホー!声出したらいけん言うたやないけ!」。

声を上げたマリちゃんに対し、カタヤマは衝動的にアイスピックを突き立て、刺し殺す。まるで気絶したかのように、一瞬にして全裸の死体となったマリちゃん。カタヤマはその若い死体の尻を両手で支えるようにして持ち上げ、先ほどまで犯していたママの死体の上へと重ね合わせる。 ここに、映画史上で最もおぞましく、かつ圧倒的な視覚的インパクトを持つ「屍姦による親子丼」の空間が完成する。二人の死体の乳房を合体させ、交差させながら、その間に舌を這わせて同時に吸い、味わい尽くすカタヤマ。ママの乳首は、死後なお物理的な刺激によって怪しく勃起している。

カタヤマはマリちゃんの背後から、その処女の肉体へと挿入する。 「こいつ処女やんけ・・・」 「今度はおかんのほうにいったろ・・・親子どんぶりや・・・」交互に死体の穴を弄び、その具合を試すカタヤマ。バックにはチリンチリンという不気味な鈴の音と、ドンドンという呪術的なドラム、そして人間の理性を狂わせる「アーアー」という不穏なコーラスが流れる。 「ええなあ・・・」

至上の快楽に浸るカタヤマの指が、ふとマリちゃんのケツの穴(アナル)に触れる。その瞬間、カタヤマの顔に、妙にシリアスで哲学的な表情が浮かぶ。 「ケツの穴開いとるがな・・・死んでもうたらこんなに開くんか。ここに突っ込んでコマしたろうか」死後硬直が始まり、括約筋の弛緩した死体の肛門という領域にすら、彼は躊躇なくその狂気を突き立てる。マリちゃんの死顔を舐め回し、その肩に手を這わせながら、アナルの味をじっくりと堪能するカタヤマ。

この「死後硬直ファック」のシーケンスは、園子温などの後年の過激派監督たちが描いたどんなエログロ描写をも生温いと言わしめるほどの、コンプライアンスを完全に消失した暗黒の極地である。第五章:宿命の女(スミコ)との再会と、果てしなき純粋悪再び、あのバー。カタヤマの表情には、明確な切羽詰まりと、狂気のグラデーションが刻まれている。 「妾になった・・・?」マスターが語るスミコの近況は、カタヤマを絶望させるに十分だった。 「前から決まった話なんですがね。昨日すっぱりと。スミコのやつも上手く咥え込みやがったもんですよ」 「おるとこ知ってるんのか?

」 「うーん、知ってるような知らないような」カタヤマは、血で汚れた札束をマスターの手に無理やり握らせる。「教えてえなあ」。 マスターはグフフと下品に笑いながら、現金の魔力にあっさりと屈する。「これはどうも、目黒駅って知ってますか?目黒駅を右側にいきますと、三茶がありますから・・・」。住所が書かれたメモが、カタヤマの手に渡る。この二人の汚れた取引の背景に、ラジオのニュースが冷酷に重なり合う。「二人とも殺された後、乱暴を受けたらしく、下着の乱れも見られたということです。

室内もかなり荒らされており、この犯行の手口から、一昨日に発見された新婚夫婦の強盗殺人事件と同一犯人による犯行ではないかと警察では見ております。連続して起こったこの婦女暴行、強盗殺人事件に警察では動揺を隠しきれず、日本の犯罪史上最も凶悪な事件として犯人の割り出しに全力を注いでいます」「日本の犯罪史上最も凶悪な事件」――その当事者である男は、今、一人の売春婦の居場所を知るためだけに、その場に佇んでいる。社会の動揺など、彼にとっては知ったことではない。目黒の、スミコの新居。部屋の中で脇の処理をしているスミコの前に、カタヤマが音もなく現れる。 「あんた誰よ?

」 「また抱かれたいって言ったやんけ。今日はぎょうさん持ってきたわ」金の束を見た瞬間、スミコの目の色が変わる。彼女は躊躇なく豊かな乳房を放り出し「思い出したわ。あんたカタヤマさんでしょ。すぐ忘れちゃうんだから」と態度を一変させる。このスミコの徹底した現金主義、肉体の切り売り精神もまた、ある種のみすぼらしい生きるためのエネルギーだ。 しかし、カタヤマの口から出た言葉は、彼女の計算を遥かに超えていた。「逢いたかったんや。あんたに逢いたくて、5人も人殺したんや」

スミコはそれを、男の過剰な冗談、あるいは安っぽい口説き文句だと受け取る。 「嘘でも嬉しい」 「嘘やない。さっきも」 「話は後で聞いてあげる」ベッドで抱き合う二人。「あんたに話があるんや。スミちゃんや。逢いたかったんや」「私もよ・・・好きよ・・・」「大好きや・・・・」。 熱烈な抱擁。しかし、カタヤマはまたしても、秒単位の早漏で行為を終えてしまう。男としての決定的な機能不全。それが彼の狂気をさらに加速させる。行為の後、赤いネイルの手入れをしながら、スミコはタバコを片手に冷酷に言い放つ。

「あんたいい加減帰ってよ」 「どないしてもあかんのか」 「あんたはただの客。私はただの売春婦。それがどうして一緒にいかなきゃなんないのよ」カタヤマは必死にしがみつく。「オレあんただけやねん。あんたと一緒やったらなんちゅうかうまいことやっていけると思うんや」。 だが、スミコの拒絶は激しさを増す。「まっぴらです。まったく男ってちょっと良い顔すると、すぐこれよ。それにさ、あんた人殺してきたんじゃないの?嘘だか本当だか知らないけれど」 「ほんまや!あんたのためにやったや!」このカタヤマの叫びは本気だ。しかし、スミコにとってはただの不気味な妄言でしかない。

「いい加減にしてよ!あんたが勝手にやったことでしょ!さっさと自首しなさいよ!誰があんたみたいな人殺しと!」

ケラケラと嘲笑うスミコの顔面に、カタヤマの強烈なビンタが炸裂する。スミコも負けてはいない。床に倒れ込みながらも、最後のプライドを懸けて罵倒を浴びせる。 「殺せるもんなら殺してみなさいよ!何にも出来ない能無しが!(ペッ、とカタヤマに唾を吐きかける)気持ち悪い!触らないで!気持ち悪いから触らないでよ!」「気持ち悪い」――カタヤマが最も恐れ、最も拒絶されたかった言葉。あるいは惣流アスカ・ラングレーの決めゼリフ。彼のドラゴン怒りの鉄拳のような表情が怒りで歪む。カタヤマの両手が、スミコの細い首へと伸び、限界までへし折らんばかりに締め上げる。 「スミちゃ~~ん。

一緒に逃げてええなああ。一緒に逃げるって言うてえなあ。頼むわ~~~スミちゃん」それは、愛の告白でありながら、同時に明確な「死の宣告」であった。スミコの身体から次第に力が抜け、ただの肉塊へと変わっていく。画面には、全裸となったスミコの死体が横たわっている。そして、カタヤマはみたび、その死体へと跨る。 バックに流れるのは、映画の冒頭、彼が故郷の緑の中でがなり立てていたあの演歌、「八九三無情」のオリジナル音源である。

「故郷を出る時ゃ 胸をはり 男一匹 やる気もあった それが落目の軒下仁義 なんで読めよか故郷だより」正常位で、愛するスミコの亡骸と激しくパコるカタヤマ。彼の顔には、奇妙な純粋さと、歪んだ至福の表情が浮かんでいる。 「スミちゃん・・・オレと一緒にオレの田舎行こうなあ・・・ええとこやでえ・・・スミちゃん・・・一緒にいこうなあ」

オルゴールのような、あまりにも不釣り合いな可憐な音が響く中、彼はスミコの死体の中に、最後の種汁を激しく中出しする。そしてスミコは永遠にカタヤマの所有物となった。第六章:大団円の「マネキン」と、映画が遺した不快という名の遺産何かが入った、妙に大きな風呂敷包みを抱えながら、東京駅の雑踏を歩くカタヤマ。 しかし、彼の逃避行はここまでだった。張り込みを続けていた警察官たちが、一斉に彼を取り囲む。 「カタヤマ・ヤスオだな。強盗殺人容疑で逮捕する」

カタヤマは抵抗することもなく、ただ一言、冷淡に返す。 「そうだけど」カチャリ、と手錠がかけられる。警察官が彼の抱えていた風呂敷包みを取り上げ、中身を確認しようとしたその瞬間、カタヤマは周囲の全人混みに向けて、狂ったように絶叫する。「見たらアカン。マネキンやんか!ごっつう精巧に出来てるから、見たらびっくりするから!」マネキン。彼がスミコの死体から首を切り落とし、あるいはその肉体をバラバラにして持ち運んでいたのか、あるいは彼にとって、これまで犯してきた女たちの死体すべてが「精巧に出来たマネキン」に過ぎなかったのか。

その真意を煙に巻くように、カタヤマの絶叫の表情のまま、画面は唐突にストップモーションとなる。そして、画面に映し出されるのは、およそこれまでの凄惨な内容とは全く不釣り合いな、気の抜けたタッチで描かれた富士山のイラスト。その横に、ただ一言「おわり」の文字。この幕切れの、あまりの不条理さと脱力感。観客は、1時間以上にわたって人間の底なしの暗黒と屍姦のパレードを見せつけられた挙句、この「おわり」の文字によって、文字通り映画の闇の中に放り出されるのだ。本作『猟奇!

暴行事件』が描いた下元史朗演じるカタヤマのピカレスクは、古今東西のあらゆる映画の悪人の中でも、突出して「一切の感情移入を拒絶する」存在である。彼には同情の余地など1ミリもない。あまりにも最悪すぎて、逆に清々しいほどの映画的純度(純粋悪)に達している。その佇まいは、後に日本映画界を震撼させた『冷血』の中山一也が放った、あの生々しい殺気と狂気の本質に完全に匹敵する。下元史朗という役者は、『襲られた女』等でも見せたような「救いようのないダメ男」を演じさせたら、間違いなく一級品の輝きを放つ。

本作における彼のコテコテの関西弁は、その凶悪さに奇妙なリアリティと、土着的な不気味さを付与していた。都会に出てきた男が、狂気に取り憑かれて犯罪者へと豹変していくプロセスは、一見すると昭和の高視聴率刑事ドラマ『特捜最前線』の1エピソードのような社会派的スケールを予感させる。しかし、高橋伴明と西岡琢也のコンビは、そのようなテレビサイズの道徳観を嘲笑う。現代のコンプライアンスや道徳的側面から見れば、本作は100%制作不可能な、エクスプロイテーション(搾取)映画の極北である。

今でこそ、映画界の重鎮として、どこか社会派映画監督のような顔をして空回りしている印象の強い近年の高橋伴明だが、彼がかつてこのような、人間の最も俗悪で、ドス黒い内臓を素手で掴み出すような映画を撮っていたという事実は、決して否定できないし、むしろこの時代の彼の方が遥かに映画的に「誠実」であったと言える。なぜなら、どんなクズ、あるいは「俺はクズだ」と自称してイキっている半グレども、実行役もが、裸足で逃げ出すほどの本物のクズ男を、一切の美化なしに描ききっているからだ。カタヤマは最後まで反省しない。社会が悪いとも言わない。

ただ、欲望のままに生き、欲望のままに死体を犯し、そして捕まった。考えてみれば、高橋伴明監督の初の一般映画作品となった『TATTOO<刺青>あり』からして、実際の凶悪事件をベースにしながら、被害者や被害者遺族の感情を徹底的に無視・逆撫でするような冷徹な構造を持った映画であった。その原点は、間違いなくこの『猟奇!暴行事件』にある。昨今、実在の連続殺人鬼をイケメン俳優が演じるような、実録再現ドラマが世界的な人気を博している。視聴率が稼げればそれでいいのか、作品としてスリルがあればそれでいいのかという倫理的問いが常に燻る中で、本作は明確な答えを突きつける。

少なくとも、この映画は観ていて全く面白くなどない。ただひたすらに不愉快であり、グロテスクであり、人間の尊厳を徹底的に汚している。だが、観客を愉快にさせることだけが映画の存在意義ではない。この圧倒的な不快感こそが、テレビや大衆娯楽が隠蔽し続ける「報道されないケースのごまんとある凶悪事件」の、本物の氷山の一角としてのリアリティなのだ。西岡琢也の脚本は、田舎の良く言えば純粋無垢な青年がダークサイドに堕ちてゆく過程を、社会の構造悪に転嫁することを頑なに拒む。

犯罪者がしでかした、その血塗られた事実そのものを、どこにも寄り添わず、誰にも肩入れしない冷徹なタッチで冷酷に活写する。この映画に比べれば、後年の園子温などが描いた狂気など、まだまだ観客へのサービス精神が見え隠れする生温いおままごとに過ぎない。『猟奇!暴行事件』は、日本映画がかつて到達した、最も暗く、最も倫理から遠く離れた場所で咲いた、狂気の仇花である。私たちはこの不快感を、映画の多様性と奥深さという名の免罪符で包むことすら許されない。

ただ、下元史朗のあのギラついた眼光と、橘雪子の白い肉体、そして「親子丼」の暗闇に響く不気味なドラムの音を、自らの脳裏に深く刻み込まれる恐怖とともに、永久に引きずり続けるしかないのだ。

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