
2020年ATTAC首都圏連続講座(小倉)第3回
粉骨碎身全不怕,要留清白在人間。
—— 于謙

オンラインは下記の日程になります。■日時 2020年10月6日(火) 19時から■開催方法オンライン(18時30分にATTACのメーリングリストに会議室アクセス情報を流します)■参加費500円(カンパも歓迎)振込先(郵便振替)ATTAC Japan(首都圏)00150-9-251494■事前にレクチャーの音声データを公開します講座の数日前には、話しの内容をネットに公開し、若干の文章を掲載します。
(下記)https://archive.org/search.php?query=creator%3A"ATTAC首都圏連続講座"あらかじめご自分の都合のよい時間に聞いていただけるようにします。6日には、その概要や補足の話をした上で、参加された皆さんからの質問や意見などの時間をなるべく多くとれるようにします。
__________ 支配的経 済学批判 小倉利丸 __________ 2020/10/6Table of Contents_________________1 経済をめぐる非和解的な二つの観点.. 1.1 ポスト冷戦とマルクスの資本主義批判.. 1.2 経済学の二つの枠組.. 1.3 価格理論2 マルクスの説明.. 2.1 抽象的人間労働へ..... 2.1.1 商品の価値と労働..... 2.1.2 搾取論の出発点としての抽象的人間労働.. 2.2 「法則」と実証主義の問題..... 2.2.1 鉄の法則と社会関係としての人間..... 2.2.2 国際労働者協会(第一インターナショナル)創立宣言..... 2.2.3 実証主義の問題.. 2.3 マルクスの射程の外側3 まとめ1 経済をめぐる非和解的な二つの観点==================================1.1 ポスト冷戦とマルクスの資本主義批判~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代資本主義のなかから登場した様々な学問や研究のなかで、経済学ほどその パラダイムの対立が明確で、しかもこの対立が経済活動に関わる多くの人々の 行動にも影響を与えている分野はない。
社会主義運動や労働運動が理論や思想に大きな影響をもっていた時代・国では、 資本主義批判の思想・理論としてマルクス(及びその後継者たち)の学説が無視 できない影響力をもってきた。100年以上の時代を経て、1990年代以降、冷戦 の崩壊は、この影響力の後退を示すようになってきた。ソ連を中心とする「社 会主義」圏の解体から、マルクスの思想や理論は誤りであったことが実証され たとみなす考え方が一般に流布し、これが資本主義をめぐる立場を超えて広範 に広がりをみせてきたように思う。
反グーバリゼーション運動やオルタグロー バリゼーション運動が資本主義に替わる社会体制を「社会主義」あるいは「共 産主義」という言葉によって表明することが共通の認識とはみなされなくなっ たと思う。 しかし、マルクス主義の最も基本的な文献とされる『資本論』には社会主義や 共産主義とはどのような体制なのかという議論はほとんどなく、もっぱら資本 主義経済に対する批判的な分析に集中している。『資本論』による資本主義批 判の議論の理論的必然として、20世紀に社会主義を標榜した国々がとってきた 体制が生み出される、という理解は成立ちません。
言い換えれば、20世紀の現 実の「社会主義」の体制がどのような末路を迎えようとも、そのこととは関係 なく、『資本論』が示した資本主義経済批判の意義を評価するということが重 要なのだ。ここでいう「意義」とは、『資本論』の内容を全面的に肯定するこ とではなく、『資本論』が目的とした資本主義経済批判の問題意識を肯定的に 継承するなかで、この批判の内実を『資本論』を超えて充実させることを意味 している。
こうした観点が重要なのは、『資本論』を執筆するに至ったマルク スが資本主義経済批判の領域で一貫して闘ってきたのが、彼が言うところの 「俗流経済学」による資本主義擁護の経済学であり、この対立の構図は、19世 紀に限ったことではなく、現代まで続く、重要な対立軸だからだ。マルクスが 「俗流経済学」と呼んだ経済学は、20世紀にはいって長らく「近代経済学」
(その学説にも様々ある)と呼ばれてきたが、以下私はこれを支配的経済学と呼 ぶことにする。冷戦の崩壊以降、支配的経済学の影響力はますます大きくなり、 その影響は、社会運動のなかにも浸透していると思う。本来、反資本主義の運 動は、なによりも支配的なイデオロギーが描く「世界」とは異る「世界」を描 くことによって、運動の方向性を共有するが、こうした支配的世界には理解し えないパラレスワールドそのものがほとんど廃墟と化している。もういちど支 配的世界の側からは理解しえない、資本主義を廃棄することの正当性を描きな おす必要がある。
この作業の出発点として、資本主義経済批判としてのマルク スの理論と方法を再確認し、支配的経済学との本質的な差異を踏まえることが 必要だと思う。更に、こうした作業を踏まえて、資本主義批判のパラダイムを 再構築するための手掛かりを得ることが次に必要になるだろう。[1] 後に述べるように、マルクスの経済へのアプローチは、支配的な資本主義イデ オロギーによって語られる「経済」とは、全く異なるものだ、ということを改 めて確認することがここでの課題である。
コロナ・パンデミックのなかで、「経済」がひとつのキーワードに浮上してき たが、政治もメディアも、彼らが口にする「経済」は、支配的な経済学が構築 してきた「経済」概念であって、これこそがマルクスが一貫して批判し、否定 してきた経済の見方である。このことを端的に示すために、『資本論』の冒頭 にある商品分析と、多くの支配的経済学の教科書がやはり冒頭で説明する市場 の交換や価格メカニズムを例にとって、両者の違いを説明したい。
市場経済は、商品(支配的経済学では「財」と呼ばれることが多い)、貨幣、価 格、資本、生産、消費、利潤、利子などの概念で構成されるが、マルクスの定 義と支配的経済学の定義はことごとく対立する。両者に共通する定義はほぼ存 在しない。市場経済の「現象」として見ている事態は同じでも、この事態への 理解や認識は全く異なる。少なくとも理論的にはそうなる。この本質的な違い を価格を例にして後程説明するが、この違いは、理論的な違いの背景にある、 資本主義社会をめぐる社会観、つまりイデオロギーの要因を無視しては論じる ことができない。
[2]1.2 経済学の二つの枠組~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「経済」という言葉が日常生活用語として用いられる場合、人々は経済をほぼ 企業活動と同義とみなすか、政府の財政・経済政策や中央銀行の金融政策、あ るいは証券市場の動向などと同一視している。経済と一般に呼ばれているもの は、資本主義の経済という特殊歴史的な経済を指しているのだが、資本主義経 済=経済とみなされることによって、資本主義ではない経済をイメージするこ とが難しくなっている。
(注)それだけではなく、「経済」という領域は、あま りにも人々の日常生活経験と密着しているために、自分の経験を根拠にして判 断できる領域であるかのようにみなされてきた。商品、貨幣などは、市場経済 の日常ではあたりまえすぎるものであるために、これらをあえて「何なのか」
と問いの対象にすることにはならず、商品や貨幣などを前提として、これらが どのようにして機能するのか、どうしたらこれらを最適に用いることができる のか、といったことに関心を寄せるのが支配的経済学の立場になる。[3] 既に存在する仕組みを「与件」として受け入れる態度は、既存のシステムを根 本的に批判の対象として、これを全く別のシステムと入れ替えるという可能性 をあらかじめ封じてしまうことになる。
どのような問題があろうとも、問題の 解決は、既存のシステムを支える諸要素、たとえば、商品、貨幣、資本、利潤、 賃金、市場などの概念によって成り立つ世界を前提として、これらを用いた解 決だけが追求されることになる。 これに対して、システムへの批判的な分析は、既に実在し、人々が日常生活で あたりまえのものとして受け入れて行動している在り方そのものを、疑問の対 象とし、日常生活を構成している事柄を否定する可能性も選択肢に入れること になる。つまり、商品の廃棄、貨幣の廃棄、資本の廃棄、利潤の廃棄、賃金の 廃棄、市場の廃棄などなどである。
たとえば商品の廃棄というのは、商品の否 定とは異なる。廃棄とは、商品という概念を与えるようなモノのありかたが存 在する余地のないような制度のことを意味している。 理論は、マルクスの場合でも支配的経済学でも現実の無限に具体的な世界を抽 象化し単純化することによって構築されます。しかし「抽象」の方法が、後に 述べるように全く異なる。[4] 批判的な分析は、「商品」と呼ばれるモノの分析方法に関してみても、「商品」
を肯定的なモノのありかたとみなして分析する場合とは異なる方法と観点をと る。それは、関心の焦点に違いがあるからだ。関心の焦点は、分析主体(研究 者、政策立案者、企業家、労働組合の活動家、人権活動家、そしてこの文章を 読んでいるあなたもまた主体である)の問題意識によって形成される。しかも、 資本主義経済は、数世紀にわたって現実に存在する制度だから、存在し続けて いる以上、永遠に存在しつづけるとはいえないにしても、一定程度の持続可能 なメカニズムがあるとみなすことは妥当な前提だろう。
この前提にたった場合、 理論的に資本主義経済の持続可能な条件を探るという方向で、理論を構築する ことは避けられません。なぜ資本主義は存在するのか、存在し続けられるのか、 という問いに答えを与えるということである。しかし他方で、持続可能であっ ても、制度の存続が深刻な矛盾を伴うものであって、もし別のシステムを選択 できればこの無住を解決できるかもしれないという方向性をもちながら理論を 構築することも可能だ。「制度の持続可能性」という概念は、それ自体で制度 の存在を正当化することにはなりません。
また、安定的な持続可能性とか制度 の持続可能な均衡状態とかに言い替えたとしても、誰にとっての「安定」「均 衡」なのかを論じない限り、こうした限定の実際的な意義はほとんどない。 [5]1.3 価格理論~~~~~~~~~~~~ 市場における商品の価格メカニズムについての説明によって支配的経済学とマ ルクスの資本主義経済批判の理論の違いをみてみよう。 ここでは支配的経済学のテキストとしてジョセフ・スティーグリッツ『入門経 済学』(藪下史郎他訳、東洋経済新報社)の説明をとりあげる。
スティーグリッ ツは、市場経済において「価格は需要と供給により決まる」「価格が変化する のは、需要と供給の間に何らかの変化が起こったから」と述べる。需要、つま り市場で人々が商品を購入するばあい、単に、「人々が何をほしがっているか ということではなく、予算制約や財の価格が所与であることによって支出でき る金額に限りがあるときに、人々がさまざまな財の中から何を選んで購入する のかということ」に関心をもつ。
商品の需要については、たとえば、キャンデーバーの価格が変化すると、人々 が購入したいと考えるキャンディーバーの数量がどのように変化するのかを理 論的に説明しようというわけだ。 他方で、供給についても、財の価格が変化するとどのように供給が変化するか を説明することが中心課題になる。
この需要と供給は価格をめぐって変動しながら価格変動がこれ以上起きないよ うな均衡状態の価格=均衡価格が達成されて「消費者たちはその価格で買いた いと思う量だけ買うことができ、そして生産者たちはその価格で売りたいと思 う量だけ売ることができる」ことになり、この価格によって買い手も売り手も 売買数量と価格を変化させるインセンティブを持たないとされる。「競争的市 場経済においては、実際の取り引き価格は需要と供給を一致させる均衡価格と なる傾向がある。これを需要と供給の法則と呼ぶ」というわけである。
たとえば、価格がなぜLEXSUSは1000万円でカップヌードルは200円なのかとい う商品相互の価格水準の違いは、上の需要と供給の法則だけではなく、供給側 の費用によって説明される。人件費や原材料のように生産量の増減で変化する ものもあれば機械のように敏感に変化しないものまで様々だが、これらの総費 用が基礎になる。商品の供給数量は、生産数の増減で変化する費用を基礎にし て、市場の価格をみながら決まる。利潤は「収入−総費用」となる。
これら一連の説明では「限界」[6]という概念が重要になり、この説明に経済 学の教科書は多くを費すが、むしろここで肝心なことは、経済行動を便益と費 用のバランスで判断するという観点だ。 「人々がある行動をとるかどうかを決めるときには、その行動をとることによっ て得られる追加的な便益と、必要となる追加的な費用を比較して決める」
このように、支配的経済学の理論が想定する舞台設定は、次のような前提にたっ ている。 ・市場で行動する個人は、貨幣の支払いのような費用と自分の個人的な欲望や 企業の利潤動機とを判断材料にしながら、利益(便益)を最大化するように行動 する。・個人や企業は価格を目安として、その損得を判断する。こうした前提 は市場経済活動の日常的な常識をそのまま採用し、これを市場経済の観点から みて合理的に判断する個人や企業を経済の主体とする市場経済の合理性だけで 行動することを前提とした市場経済モデルを分析の基礎に置く。 支配的経済学の考え方では、企業の利潤は、市場に供給される価格が生産に要 する費用を超える価格で売買が成立した結果とされる。これは、買い手が、そ の価格で購買することが、貨幣支出の費用を負うとしても。自分にとってそれ 以上の「便益」があるからだ、というところに集約される。この説明では、売 り手がこの価格で利潤を得られるのは、もっぱら買い手の費用を上回る「便益」
を売り手の企業が提供しているのだ、という理解になる。これは、企業こそが 市場経済を通じて、消費者の経済生活に貢献する財の供給主体であるというこ とを正当化する理論の枠組みとなる。メディアが市場に供給される財(商品)に 注目するとき、もっぱら関心は企業やその経営者たちの動向であって、供給さ れる商品の生産を担う労働者を供給の主体とはみなさない。このことが、グロー バルな製造業のサプライチェーンのなかで、第三世界の劣悪の労働環境が、セ レブなブランド商品や安価な日常生活用品の「便利さ」を提供する企業のビジ ネスモデルの背後にあることを消費者に自覚させず、企業のビジネスをもっぱ ら肯定的に報じるディアの姿勢に反映しています。 支配的経済学が市場経済の価格メカニズムという最も初歩的な分野で、主役に 抜擢した企業と消費者という役割の舞台設定そのものを私たちは、まず問題に しなければならない。このことにマルクスの『資本論』は、その冒頭の「商品」
の説明で挑戦した。2 マルクスの説明================ 以上のように、主流の経済学では、市場の取り引きの主体となるのは、消費者 (家計とも呼ばれる)と商品を供給する企業の間の取り引きであり、ここで価格 を決定する上で重要な役割を演じているのは、売り手、買い手双方が取り引き に要した費用を超える便益を得るということであり、買い手の欲望と売り手= 企業の費用だけが関心の対象になる。この場合、労働者は資本にとっての「費 用」でしかない、という位置づけになる。2.1 抽象的人間労働へ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~2.1.1 商品の価値と労働---------------------- マルクスの場合、価格の説明の前に商品とは何かの説明から出発する。『資本 論』冒頭の第一章は「商品」という表題で第一節は「商品の二つの要因 使用 価値と価値(価値実 価値量)」と題されている。マルクスの説明はおおよそ以 下のようになる。 商品とは「その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物」
であり、この「物の有用性」が「その物を使用価値にする」。資本主義ではこ の使用価値が商品の交換価値の「素材的担い手」になる。ここまでは、支配的 経済学や一般常識ともさほどかけはなれた話にはなっていない。支配的経済学 は、ここから財の買い手の欲望と予算の関係に焦点をあてて、どのような価格 ならばどれだけの商品を購入してもよいと考えるだろうか、という方向で、市 場での交換についての議論が進む。 これに対してマルクスは市場の交換を交換主体となる売り手と買い手の主観か ら切り離す。
個々の買い手と売り手がどのような主観的な欲望をもって取り引 きしようとも、その結果として市場で成り立つ交換に焦点をあてて議論を進め る。ここから先の議論の進め方が支配的経済学とは全く異なる。 小麦が鉄と交換されると仮定した場合、小麦という使用価値と鉄という使用価 値の交換割合を「交換価値」と呼ぶ。「与えられた量の小麦が、どれだけかの 量の鉄に等値されるという一つの等式で表すことができる」。そうであるなら、 使用価値としては異なる二つの商品に「同じ大きさの一つの共通物」が存在し なければ、交換は成り立たないはずだ。
商品となる物は、見かけ上は様々な使 用価値なのだが、この様々な使用価値が相互に交換される(注)以上、「商品の 使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るものはた労働生産物とい う属性だけである」しかも、この労働生産物から使用価値に関係する要因を捨 象すれば、労働の有用性もまた捨象されて「すべてことごとく同じ人間労働に、 抽象的人間労働に還元されている」。
(注)市場では貨幣と交換されることになり、物々交換ではないのだが、この貨 幣との交換に至る道筋を彼はこの後すぐに「価値形態」という『資本論』でも 最も難解といわれる箇所で説明する そして商品の価値について次のように説明する。 「これらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残ってい るものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間 労働の、すなわち、その支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、 ただの凝固物のほかにはなにもない。
これらの物があらわしているのは、ただ、 その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているとい うことだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これ らのものは価値――商品価値なのである。」
商品交換は異なる使用価値相互の交換として現象するが、この現象を支える交 換の割合=交換価値の実体は、この使用価値とは全く関わりのない抽象的な人 間労働だというマルクスの主張は、支配的経済学とは全く異なる市場経済理解 をもたらしている。支配的経済学では交換は売り手と買い手双方に費用を超え た便益をもたらすとみなす。しかし、マルクスは、交換は等価であるから交換 される、と述べて「便益」を無視する。
交換する諸個人にはそれなりの交換の 動機があり、結果として市場経済を通じた「売ってよかった」「買ってよかっ た」という主観的な肯定感情が生まれるかもしれないが、こうした主観的な感 情がどうあれ、説明されるべきことは、この感情ではなく、また売買を成立た せた個別の事情でもなく、市場という構造が果している諸個人の主観を超えた メカニズムだ、ということである。こうした観点をとることで個々の経済主体 の経験や実感には存在しないが、交換を規制するものとして、「抽象的人間労 働」という労働をこの構造の内部に見出した。
2.1.2 搾取論の出発点としての抽象的人間労働------------------------------------------ 商品の価値の実体が抽象的人間労働であるという立論は、資本主義的な生産過 程を通じて、労働者の労働の一部が剰余労働として資本によって取得され、こ れが利潤に転化する一連のメカニズムの出発点をなす。しかも、この一連のプ ロセスを何らかの資本による誤魔化しや違法な行為に基くのではなく、市場経 済の正当な契約行為に基いて実現されるものとして、マルクスは説明した。 支配的経済学では、商品交換の決定要因に労働を想定しない。
労働は、供給側 の費用の一部に賃金として影響を与えるに過ぎないものだ。[7] マルクスが『資本論』の執筆に至るまで、膨大なノートや草稿を残しており、 そのなかでも後に『剰余価値学説史』として死後編集されることになるノート 類は、先行する経済学や社会思想家による利潤の源泉をめぐる議論を網羅的に 検討したもので、後に『資本論』第四巻になるはずのものだ。マルクスは、資 本主義社会の豊かさを象徴する資本の利潤の源泉が労働者の剰余労働にあり、 これが資本家に帰属する正統性があるのかどうかという問題意識をもっていた。
これは、当時の労働運動における労働時間や賃金をめぐる方針とも関わって、 非常に重要な課題だった。この問題の重要性は、資本主義が違法あるいは不当 な仕組みで労働者を「搾取」しているから、ということよりもむしろ、資本主 義的な契約や法規範では全く正当でありながら、搾取が成立するというこの方 に重点がある。言い換えれば、資本主義の枠組みを承認する考え方では、この 搾取の問題、あるいは搾取からの解放を論ずる理論的な根拠は得られない、と いう問題なのである。
商品の価値の問題は、社会の経済的な富をもたらす主体が誰なのか、という問 題だから、もし、その答えが資本(家)であるとするならば、資本なくして社会 の豊かさはありえない、ということになり、社会の大多数を占める労働者とそ の労働は、資本に従属することもやむをえないということになるかもしれない。
このように、資本に利潤の源泉があり資本が存在することにも社会的合理性が あるということを前提とした場合、労働者の闘いは、資本を打倒することでは なく、資本との共存を前提として、より好ましい賃金と利潤との分け前を「分 配」の問題ととらえて、分配のありかたを交渉する、ということになる。実際 にこれが、19世紀末以降、社会主義運動のなかの修正主義と呼ばれる流れで主 張されることになる。
(ベルンシュタインが最も有名だが、イギリスの社会主 義者たち、たとえばバーナード・ショーなどもこの流れに含まれる) 現代の革 新と呼ばれる政党や労働組合の主流の資本主義観と労働観はまさにこの修正主 義の流れのなかにある。 資本主義では商品という形態をとってあらわれている「富」の源泉が、資本で はなく労働と自然にある(これがマルクスの観点だ)とすると、労働者の資本と の闘争の主要な課題は、資本を廃棄して、本来の労働の主体に社会的な富の支 配権をとりもどすことが可能な経済システムを構成すること、つまり資本のな い経済を主張することになる。
資本主義のなかで労働者は不当な扱いを受けてきたたことに対して、資本主義 の制度を前提として公正で平等な関係が獲得されれば、不当な搾取から解放さ れるかのような錯覚を労働運動そのものが作りだしてきた。特に、普通選挙権 が実現し、議会を通じて労働者の主張が政策や法制度に反映しやすい環境がで きると、資本主義内部での改良を運動の最終目標にしてしまい、資本主義を廃 棄する動機付けが希薄になる。
改良主義を支える現状認識では、労働者の資本 に対する正当な怒りが資本主義を否定してその先にある自由、公正、平等へと 向わずに、資本主義を前提とした解決へと回収される危険性を生むことになる。2.2 「法則」と実証主義の問題~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『資本論』の商品分析が、支配的経済学による価格理論と大きく異なる背景に は、そもそもの問題意識の違いがあるが、同時に、分析方法における個人とし ての人間の位置づけの違いがある。マルクスは次のように書く。
「資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係の発展度の高低が、 それ自体として問題になるのではない。この法則そのもの、鉄の必然性をもっ て作用し自分をつらぬくこの傾向、これが問題なのである」「ここで人が問題 にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化である、一定の階級関係や利 害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの 自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係 に責任あるものとすることはできない。
というのは、彼が主観的にはどんなに 諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだか らである」2.2.1 鉄の法則と社会関係としての人間------------------------------------ これは『資本論』の序文にある非常に有名な箇所だが、この箇所は非常に誤解 されやすい。
つまり、資本主義には「鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬ くこの傾向」があるのなら、なぜ労働運動とか社会主義運動のような運動を実 践する必要があるのか、こうした運動は無駄ではないのか、資本主義の鉄の法 則に委ねておけば資本主義は早晩崩壊するはずではないか、という解釈がなさ れることがある。しかし、マルクスは経済的諸範疇の人格化、あるいは階級関 係や利害関係の担い手としての人間の行為に着目し、「個人」の観点を否定し ている。
これは歴史や社会をある有力な政治家や軍人などの行動に還元して記 述したり論じるような方法を否定するということであり、また、市場経済を 「個人」の集合とみなす支配的経済学の方法に対して、階級や利害関係のよう な社会集団としての人間の行為に着目する。 鉄の法則という非常に断固とした言い回しにマルクスが込めた意味を私は次の ように捉える。 マルクスが『資本論』を執筆していた1860年代のマルクスの活動をみると、非 常に活発に労働運動の国際的な組織化に関与していた。国際労働者協会が設立 されたのもこの時代になる。
労働者の闘争は、現場の労働運動であれ法制度を めぐる闘争であれ重要であることを自身の行動で示していた時代だ。上に引用 したなかにある「鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向、これが 問題なのである」という文言の重要な点は「これが問題なのである」という表 現にある。
鉄の必然性をもって資本主義が自らの法則を貫徹しよとするならば、 この鉄の必然性と対決できなければならない、あるいは、この鉄の必然性に内 在する資本主義の矛盾を深化させて、資本主義を廃棄する道筋がつけられるだ けの力を労働者階級はもたなければならない、という深刻な現状認識である。 そしてまた「主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個 人はやはり諸関係の所産なのだ」という場合も、だからこそ、社会的な諸関係 のなかに、労働者階級としての諸関係を埋め込む努力が必要だという理解がそ の背後にある。
社会的個人をそのまま資本主義の支配のなかに置けば、資本主 義の支配的な社会関係の網の目に縛られる。そうならないためには、社会関係 の再構築が必要であり、これは個人の私的な活動では実現できない広範囲な労 働者階級の団結によってのみ実現できると考えた。たぶんこの考え方は、後に、 労働者階級の前衛として党の複数性や、コミュニティごとに自立分散した反資 本主義の運動といった方向性と抵触することになる。
マルクスは個人を社会の諸関係から切り離して、純粋な「個」とみなす考え方 を否定したが、まさにこの考え方こそが支配的経済学が市場で行動する主体に 与えた理解である。マルクスはこれに対して、階級としての社会集団が果す役 割を重視した。資本家階級と労働者階級という階級間の力学である。これは組 織されたものとしてというよりも、資本主義経済の構造が生み出す構造的な矛 盾といった方がいいだろう。
こうした階級相互の利害の対立が、19世紀であれ ば労働時間の法的な規制をめぐる問題のなかで具体化しているとみるので、 『資本論』の労働日などの分析では、社会集団としての人間が制度との関係で もたらす影響を正面から扱った。この集団を階級として扱うという方法が、マ ルクス主義の階級社会論としてある種の定式になり、その結果、階級概念では うまく処理できない、別の社会関係、ジェンダーやエスニシティあるいはナショ ナリズムの問題が、20世紀後半になると議論の焦点になる。
2.2.2 国際労働者協会(第一インターナショナル)創立宣言---------------------------------------------------- 商品価値の実体=抽象的人間労働という考え方は、社会の「富」の源泉を資本 (企業)の活動に収斂させる支配的経済学とは逆に、資本なき経済の可能性を示 すことになった。この資本なき経済、労働者による経済を彼は、国際労働者協 会の設立宣言のなかで次のように述べている。「所有の経済学にたいする労働 の経済学のいっそう大きな勝利」と述べられている事柄である。
これは「協同 組合運動」、「少数の大胆な働き手」が外部の援助をうけずに自力で創立した 協同組合工場のことである」として、この協同組合工場の意義を次のように書 いている。
「近代科学の要請におうじて大規模にいとなまれる生産は、働き手の階級を雇 用する主人の階級がいなくてもやっていけるということ、労働手段は、それが 果実を生みだすためには、働く人自身にたいする支配の手段、強奪の手段とし て独占されるにはおよばないということ、賃労働は奴隷労働と同じように、ま た農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の形態にすぎず、やがては、自 発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合労働に 席をゆずって消滅すべき運命にあるということ、これである。」
労働者による「自発的な手」としての労働は、単に資本家が経営し生産してい る商品を労働者が横滑り的に引き継ぐものではない。資本の必要ではなく、労 働者の必要に即した使用価値の生産への転換をも含むものでなければならない。 マルクスはこの少数の労働者による資本家なき協同労働の試みは「全国的規模 で発展させる必要があり、したがって国民の資金でそれを助成しなければらな ない」と強調した。成功の鍵は多数を占める労働者が「団結によって結合され、 知識によってみちびかれる場合にだけ」だとして、とりわけ国際的な連帯の必 要を強調した。
だからこそ国際労働者協会の存在意義があるということだ。 このように、市場経済の商品売買の背後にある労働の役割を明示的に示すこと を通じて、資本の存在理由そのものを否定する根拠を明かにしようとしたとい える。この観点は、『資本論』の第二巻の再生産表式で社会全体の経済がどの ようにして、労働と物の組み合わせによって成立つのかを説明することによっ て、結果として、資本なき経済の可能性の根拠を示すことになった。
[8]2.2.3 実証主義の問題-------------------- これまでに述べてきたように、マルクスの商品価値論、そして資本の利潤の根 拠を論証する基本的な枠組みとしての抽象的人間労働という概念は、支配的経 済学が立脚するデータによる理論の実証や人々の「経験」に基く理解のいずれ からも導くことのできないものであるために、抽象的人間労働の「実在性」へ の疑問が繰り返し提起されて、マルクスの主張する資本の利潤の根拠が労働者 による労働(抽象的人間労働)にあるという理論は破綻していると批判されてき た。
抽象的人間労働は、労働時間を単位とする労働量である。だから、安直に考え ると、「私は今日8時間労働したから、私の抽象的人間労働量は8である」とい うことでよいように思われてしまう。しかしマルクスはこうした考え方をはっ きりと否定している。『資本論』の序文で「経済的諸範疇の人格化」と表現し ていたことを想起する必要がある。個々人の実際の労働時間がそのまま抽象的 人間労働量とみなされるのではなく、社会的必要労働としての評価を経た数量 になる。
個人の労働者を基礎にすると、労働者の個体差や労働意欲の差、技能 の差が労働量に反映するが、こうした差異に依存するのではなく、個人の能力 や事情を超越した社会的な量としての労働量が抽象的人間労働の量規定となる。 つまり、データでは実証することができない量なのだ。同時に、資本の利潤の 源泉をなす剰余労働や剰余価値もまたデータによって実証することはできない。 実在するものとしては貨幣形態での利潤しか存在しないというのが資本家の言 い分である。
そして資本家の経営手腕や資本家の努力が企業を支えており、こ れこそが利潤の源泉であるということに関しては「実証」可能だとするのだ。 データで実証することができなかったり、実在するものをそのものとして指し 示すことができないものは現実を構成するものではない、ということではない。 たとえば、私たちが、社会における人間の権利を論じるとき、権利と呼ばれる ものの実体は、「これ」だと指し示すことのできないものであって、人間の脳 だとか身体のなかのどこかに見出すことなどできないものだ。権利は、制度の なかに不完全なかたちで具体化されるにすぎない。
抽象的人間労働という概念 は、この概念について支配的な社会の側が承認しないために、社会の共通理解 とはならない。フロイトが発見した無意識はこれに近いかもしれない。実証的 なデータが重視される医学の分野で、脳のどこにも無意識を発見できていない ことから、無意識の理論を否定する医学者(精神医学者)は少くないし、無意識 を基礎としてフロイトが構築した精神分析の考え方を継承する精神医学は明ら かに少数に留まる。少数であるから、あるいは支配的な学説ではないから、と いう理由で理論の是非を判断すべきではない。
むしろ、社会を構成する人々の 意識や主観、経験に依存したのでは理解しえない社会の構造の存在を指摘する ことは、社会批判の理論にとって必須の目標でもあるという観点から、理論の 妥当性への判断を下す必要がある。 マルクスが抽象的人間労働を導く前提にあったのは、労働を商品生産にとって 不可欠な条件として理解する考え方だ。
この考え方は、社会の構成員が必要と するモノは、人々の労働――この労働が奴隷によるものであれ農奴によるもの であれ、あるいは近代資本の工場で働く賃金労働者であれ――によって獲得さ れるという社会観に基いており、これは、彼が社会運動を通じて、先行する経 済学や社会思想から得た認識だといっていい。これに対して支配的な経済学や 思想は、むしろ富を所有する力を持つ者の意義を評価してきた。労働者ではな く、労働を組織し、労働生産物を所有する力をもつ者こそが社会の富の創造者 だとみなした。
資本主義の場合であれば労働を組織し、労働者に対して指揮・ 監督する資本家こそが富を生み出す主体であり、労働者はその単なる手足にす ぎない、という理解である。2.3 マルクスの射程の外側~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 支配的経済学に対するマルクスの批判の意義は、資本に支配された労働の世界 がいかに商品経済的に豊かであったとしても、労働者にとっては資本のための 労働しか許されず、意味の剥奪された行為が強いられた世界しか存在しない、 ということを明らかにした点だ。
抽象的人間労働と剰余価値の理論は、この問 題を端的に提起したが、しかし、その限界もある。この問題は別途論ずるべき だろうから、簡潔に要点だけ述べておく。 ひとつは、支配的経済学が主要な観点とした個人の「欲望」をめぐる分析が欠 落している点である。市場経済欲望は、資本主義のイデオロギーの基礎をなす。 しかも市場は人々の欲望を先取りして、これを商品の使用価値に埋め込む。人々 は市場で商品を買う前に、商品への欲望を通じて自分の将来の世界をイメージ するように仕向けられる。
この未来の「夢」を市場における商品への欲望と消 費に媒介することによって、商品に依存しない未来への夢の成立つ余地が奪わ れる。これが労働者の日常生活を構築することになると、階級的な資本と切断 された世界を構想することが困難になる。支配的経済学は労働を排除する一方 で欲望を資本の支配の下に置くための理論として洗練されてきた。この問題に 対しては、商品の使用価値を捨象して抽象的人間労働を導く論理だけでは対抗 できない。むしろ資本による使用価値の支配を問題にする枠組みが必要になる。
これは、労働における具体的有用労働そのものもまた剰余価値論では論じきれ ない搾取対象になっているという理解が必要になる。総体としての資本主義の もとでの労働を否定する枠組みが更に必要だ。 第二に、ジェンダーの問題がマルクスの場合も支配的経済学の場合も中心的な テーマとはなっていないという点だ。マルクスの剰余価値論との関連でいえば、 再生産に関わる家事労働は賃労働の外部にある労働になるが、この労 働がどのようにして資本の利潤を支えるだけでなく、労働者のなかに家父長制 イデオロギーを埋め込むことになっているのか、という二重の課題がある。
こ の課題は、ジェンダーの観点で『資本論』を書き直すことが必要だということ でもある。 第三に、同様に、エスニシティの問題。一般にマルクス主義では「民族問題」
と呼ばれてきた問題を資本主義経済批判の理論に組み込むことができるかどう か、という問題になる。 第四に、環境、あるいは自然の問題。自然生態系は19世紀の資本主義批判の中 心課題ではなかった。しかし現代の経済にとって資本が生み出した社会が自然 生態系の危機という問題は、深刻な体制的な矛盾のひとつをなしている。資本 の廃棄が自然生態系の回復を直ちに意味するとは限らないからこそ、むしろこ の問題を自覚化した理論の再構築が必要になる。 第五に、ナショナリズムの問題。
マルクスは国家論を『資本論』の執筆の次に 取り組むべきテーマとしていたから、『資本論』に国家に関する記述がほとん どないことをもって『資本論』の欠陥とみなすことはできないが、これはむし ろ私たちに残された問題だ。端的にいって、労働者は階級としての存在と国民 としての存在(移民としての存在がその裏面にある)という二重のアイデンティ ティのなかで、資本とその国家は労働者を労働者階級としてではなく、国民と して組織化しようとする。
ここに階級意識と国民意識の対抗関係が生まれると もいえるし、国民意識を基盤とした階級意識の形成(ナショナリズムに還元さ れた労働運動、ナチズムやファシズムがその実例になる)になる可能性もある。 はナショナルなものとして再生産されるという問題は、マルクスも自 覚しつつも『資本論』を含め経済学批判ではほとんど言及されていない。しか し、現代の資本主義批判ではこの問題は回避できない重要な問題である。 第六に、イデオロギーの問題。
上記のいずれにも関連して、資本主義イデオロ ギーがどのようにして資本主義経済によって再生産されるのか、という問題で もある。イデオロギーを全て経済の還元して論じることはできないが、唯一経 済の側から論じなければならないのは、商品の使用価値が資本主義イデオロギー の形成に果す役割と、労働者が労働のなかで、資本家の価値観を内面化するメ カニズムの問題、この二つは経済の問題として論じる必要がある。
3 まとめ======== コロナ・パンデミックのなかで「経済」への関心が集まっているが、ここで語 られる経済とは企業の収益に関連する議論であり、労働者はっもっぱら企業に 依存し、企業が意図する労働を受動的に担う以外に生存の基盤を獲得できない 従属的な地位にあることを当然のこととした経済理解でしかない。 こうした経済の理解を支えているのは、支配的な経済学が市場経済に関して作 りあげた労働を排除した価格理論であり、資本の利潤をもっぱら企業努力に還 元する考え方にもとづくものだ。
こうした考え方は19世紀の「俗流経済学」にまで遡ることができるが、これを 批判する意図をもって構築されたマルクスの資本主義経済への批判的分析は、 資本のない経済の可能性の理論的基礎となるものであり、また、鉄の法則のよ うに貫徹する資本主義経済の構造を根底から解体するためには、この強固な制 度に対抗できるだけの社会の多数を構成する人々による資本に抵抗する闘争が 不可欠でもあるとした。
しかし、同時に、こうしたマルクスの資本主義批判の観点を無化するように、 20世紀の資本主義は人々の欲望をコントロールし、未来の「夢」を資本主義的 な商品への欲望のなかに抑え込むメカニズムを生み出してきたし、ジェンダー、 エスニシティ、環境といった階級構造からは明瞭には捉えきれない諸矛盾が民 衆の運動の重要な局面をもたらしてきた。この意味でいうと「経済」という課 題を、マルクスの指摘した資本主義批判に限定して理解することで満足するこ となく、更にこれを拡張した理論構築が不可欠になっているともいえる。
こう した理論形成なしには、資本主義の廃棄が人々の平等、公正、自由を実現する 搾取なき社会の見取り図も描けないと思う。Footnotes_________[1] 1990年代以降も繰り返し、ある種の「マルクス・ルネサンス」のような様相を呈することがあったし、その結果マルクスに関心をもつ人々が増える現象もあったが、このことが、一過性の流行やアカデミズムの枠を超えて、反資本主義の社会運動の共通認識としての資本主義批判の基礎を形成したとはいえない。
現代の社会運動の課題は、階級に収斂するとはいえず、ジェンダーやエスニシティ、環境、宗教など多様な領域に拡散している。これらを伝統的なマルスク主義の公式や、あるいは、マルクスのテキスト解釈からアプローチすることには限界がある。このことは、マルクス主義の側が、その理論的なパラダイムを批判的に再構築することを現代の世界からの要請として受けとめる必要がある、ということでもある。実際には、マルクス以後のマルクス主義そのものは一枚岩ではなく、かなり複雑な様相を示し、様々な思想や理論との関わりあいのなかで展開してきた。
例えば、多かれ少なかれ肯定的な評価が与えられてきたレーニン、ローザ・ルクセンブルク、グラムシ、トロツキーといった名前を挙げただけでも、かれらの間にはかなりの多様性がある。これに、スターリンや毛沢東のような賛否の評価がかなり大きく分れる人たちを加えると更に全体の見取り図は見通しにくくなる。これで話は終らない。フランクフルト学派のように最も大きな思想的影響を与えつづけている人々やこのいずれにも属さないが無視できない人々、たとえばヴァルター・ベンヤミンやエルンスト・ブロッホも無視できない。
こうした人々がほぼ20世紀前半までの世代だとすると、更にそこから半世紀以上の現代までの時代のマルクス主義とマルクスの思想や理論では、ジェンダーやエスニシティ、環境といった階級を主軸とした伝統的なマルクス主義では周辺にある問題を資本主義社会の否定の論理のなかにどのように組み込むかという課題が一貫して問われてきたし、最近のいわゆる宗教原理主義や極右の台頭に対してもまた、こうした現実を批判しうるマルクス主義の思想と理論の枠組み構築が求められている。
[2] 80年代の新自由主義の台頭と90年代以降のポスト冷戦の時代になると、マルクスの学説の影響力は後退し、経済学はいわゆる「近代経済学」と総称される支配的経済学によってほぼ制圧されるようになってきた。マルクスの資本主義批判は、学説史のなかで過去の遺産のような扱いを受けるのがせいぜいである。ポストモダニズムのなかで人文科学が、様々な近代批判の思想とともに、マルクスの影響を長く受けてきたこととは対照的な状況が「経済」をめぐる理論状況にみられるのだが、これは単に理論やアカデミズムの世界の問題ではない。
支配的な経済学が構築してきた市場や企業の果す役割についての基本的な考え方が、現実の経済活動に関わる人々やジャーナリズムの「経済」認識を構築し、この認識を基礎にして人々が実際の経済活動を実践する。結果として、「経済」は支配的経済学の世界を構築し、この世界を現実のものとしてきたから、マルクスの経済学批判の観点からすれば、明らかに誤った認識に基づいた世界が現実に構築されてしまっている、ということになる。
機械ならば間違った設計図であればまともに動かないことになるが、人間社会の設計図は、間違っていてもそれなりに動くし、この間違いを正しいものとして通用できるようなメカニズムがある。歴史的な事実として証明しえない神話が社会の共通の世界観を構築して統治機構の正統性を支えるということは人類史になかば共通してみられるやっかいな事象でもある。[3] マルクスは『資本論』の執筆の過程で人類史の再構成を試み、またモルガンの『古代社会』のような人類学の文献に強い関心を寄せた。[4] 商品と呼ばれる商品(あるいは支配的経済学でいう財と呼ばれる財)は実際には市場には存在しない。
すべての商品は固有名でしか存在しない。たとえば「LEXUS LS500h」とか「日清食品 カップヌードル シーフード レギュラー」といった商品を特定する名前である。経済学の理論では、マルクスであれ支配的経済学であれ、こうした固有名の商品を「商品一般」としてまとめて扱うことになる。LEXUS LS500hは1000万円以上の価格がつき、カップヌードルは200円程度で、その差は大きいが、いずれも「商品」という一般名詞にまとめることができる。
なぜこれほどの価格の違うモノを「商品」というひとつの概念にまとめることができるのか、といったことを考えることは日常生活では必要ないが、日常生活を支える経済とはどのようなものかを考えるためには必要なことになる。商品一般、あるいは説明の便宜として仮想的に商品を例示する(小麦とかキャンデーバーとか)ことで市場に供給されるモノを一般的に扱いうるある種の「実験室」のような環境を準備することが可能になり、そもそも商品とはいかなるメカニズムをもつのかを探る前提条件ができあがる。
[5] 支配的経済学のパラダイムによるオルタナティブ資本主義補足するが、新自由主義は、資本主義と同義ではない。だから新自由主義批判によって資本主義批判が貫徹できるわけではない。新自由主義は、資本主義の唯一のイデオロギーでもなければ思想でもないし、経済学が市場経済を中心に据えた学問であるからといって、支配的経済学が市場原理主義を肯定する学説だと決めつけることはできない。支配的経済学のなかで、市場メカニズムに高い評価を与えつつも、政府の経済的な介入を重視する考え方としてケインズ経済学の流れを汲む考え方は無視できない影響力をもっている。
とはいえ、支配的経済学では、市場の個々のアクターを合理的な判断に基づいて行動する主体として想定する。市場合理性をもつ個人という支配的経済学が前提する人間観は、マルクスには存在しない。マルクスにとって個人は社会関係のなかで行動を選択する社会的存在であって、資本主義的な市場経済からみれば不合理な行動を選択することがある。資本の利害と対立して闘争という行動を選択する社会集団としての人間の場合がその典型だろう。支配的経済学のなかの市場原理主義批判は、市場が不平等や貧困の問題は市場に委ねることでは解決できず、政府の介入が必要だということを認める。
判断を見誤らない的確な政策をとることによって、市場の効率性を尊重しつつも、平等な所得の配分との兼ね合いを実現することが可能だと仮定し、企業、国民国家(企業と労働者の所得に基盤を置く財政)の仕組みを肯定して、資本主義が抱える問題の解決を資本主義内部で可能なものとして提示する。少なくとも理論的には解決可能なシナリオが提示される。したがって、資本主義という制度の枠組を根底から覆すような主張、つまり市場、資本、近代国民国家の廃棄の必要を認めないし、否定する。
資本主義を前提とした「もうひとつの世界」の実験は、福祉国家や混合経済などと呼ばれるような体制として長い歴史をもち、資本主義であっても社会主義並の福祉や平等を実現しうるのではないか、という評価が与えられ、自由の抑圧が顕著なスターリン主義や権威主義的な一党独裁の「社会主義」よりも好ましい選択肢ではないか、という主張も左派のなかには根強い。新自由主義的な資本主義でもなければ社会主義でもない「第三の道」の経済的な可能性は、リベラルで新自由主義に批判的な支配的経済学の潮流が支えてもいる。[6] 限界とは、商品生産や購入を1個だけ増減させるといった微細な変化のこと。
この限界的な変化を通じて、需要と供給の数量と価格が決まるとする説明になる。[7] ちなみに、マルクスは、支配的経済学のように商品の価格が市場の需給関係で決まり、商品に投下された労働量は影響しないとする説について『資本論』に先立って書かれた『経済学批判』で言及し、これを「奇妙な推論」だとした上で、「交換価値の基礎のうえでそれとは異なる市場価格がどうして展開されるのか、もっと正しくいえば、交換価値の法則はどうしてそれ自身の反対物でだけ実現されるのか、という問題は競争論で解決される」と述べている。
(第二章)これは『資本論』第三巻で論じられている利潤率均等化、生産価格、利潤、利子、地代への剰余価値の分配などで扱われることになる。[8] 国際労働者協会設立宣言から「上層階級の人間が社会的階段をのぼっていくのとすくなくとも同じ割合で労働者階級の大多数者はさらに一段と低く沈んでいった。
機械の改良も、科学の生産への応用も、交通機関の新基軸も、新しい植民地も、海外移住も、市場の開発も、自由貿易も、あるいはこれらすべてを合わせたものも、勤労大衆の貧困をなくすことはできず、労働の生産力の新たな発展は、現在の欠陥のある基礎のうえでは、つねに社会的対比をふかくし、社会的敵対を鋭くする結果とならざるをえないということ、このことは、いまやヨーロッパのあらゆる国で、偏見をもたないすべての人にとって明白な真理となっており、他人を痴人の楽園に閉じこめることを利益とする人間だけが、これを否定しているのである。
この目くるめくばかりの経済的進歩の時代にあって、イギリス帝国の首都で、餓死がほとんど日常事の地位を占めるにいたった。商工業恐慌とよばれる社会的疫病がいっそう頻繁にくりかえされるようになり、その範囲がいっそう広くなり、その結果がいっそう致命的になったことが、世界史上のこの時代の特徴である。」(全集16巻p.7)労働者階級の闘争が多くの敗北を被ってきたなかで、マルクスは二つの成果を強調する。ひとつは上述した労働者の自立した協同組合工場の試みであり、もうひとつが、イギリスにおける10時間労働法の成立である。
労働時間を制限する法制度をめぐる闘争は、資本による際限のない搾取を阻止するという意味があった。そしてこれは同時に、中産階級の経済学との闘いでもあったと以下のように述べている。「労働時間の法律的制限をめぐるこの闘争は、貪欲をおびえさせた以外に、じつに、中間階級の経済学である需要供給の法則の盲目的な支配と、労働者階級の経済学である社会的先見によって管理される社会的生産とのあいだの偉大な抗争に影響を及ぼすものであった...10時間法案は、大きな実践的な成功であるだけにとどまらなかった。それは、原理の勝利でもあった。
中間階級の経済学があからさまに労働者階級の経済学に屈服しaのは、これが最初であった。」(同上、p.9)