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痴漢覗きは最高 (1989) Kazuhisa Ogawa
Internet Archive · pinku-eiga-society·2026-08-04·Kazuhisa Ogawa

痴漢覗きは最高 (1989) Kazuhisa Ogawa

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一個謊言重複千遍未必是真理,但重複千遍會成為更大的謊言。

痴漢覗きは最高 (1989) Kazuhisa Ogawa

この世には、高尚な批評言語によって美化され、シネフィルたちの知的玩具として消費される映画がある一方で、そうしたお上品な言説の網の目をことごとくすり抜け、ただただ人間の生々しい欲望の熱量だけで銀幕を焦がし尽くす真の映画が存在する。

1989年に大蔵映画から放たれた小川和久(小川欽也)監督による超弩級のプログラムピクチャー、その名も『痴漢覗きは最高』は、まさに後者の頂点に君臨する狂おしき傑作である。現在のコンプライアンス至上主義、全方位への配慮が義務付けられた去勢済みのエンターテインメント環境から見れば、このタイトル、そして本作が内包する一切の容赦のないエロティシズムと、倫理を嘲笑うかのような不道徳の疾走感は、文字通り今じゃ考えられない禁忌の領域に属している。

しかし、だからこそ本作は、四半世紀以上の時を超えてなお、我々の凡庸な理性を粉砕するほどの爆発的なダイナミズムを放ち続けているのだ。本作は、単なる安直なエロティシズムの切り売りではない。それは、高度経済成長の狂乱が終わりを告げ、バブル経済という虚飾の絶頂の中で精神的な空虚に直面していた1989年という時代に対する、最も下卑た、しかし最も鋭利な弾劾(カウンター)である。ここで描かれるのは、社会秩序からの転落、欲望の解放、そして究極の自己肯定に至る一人の男の凄まじい精神のオデッセイ(放浪記)なのだ。

序章:日常の崩壊と肉体の儀式映画は、平穏だが息苦しい日常の裂け目から幕を開ける。主人公は、久須美欽一が演じる中堅のサラリーマンだ。彼は、社会の歯車として、従順なエリートとしての日々を送っている。しかし、その内面には、システム化された現代社会が押し殺そうとする、ドロドロとした原始的な覗き見の欲望(ヴォワイオリズム)が渦巻いていた。冒頭、スクリーンを埋め尽くすのは、あまりにも瑞々しく、同時に暴力的なまでに肉感的な浴室のシークエンスである。画面に映し出される妙齢の女性。彼女は黄色いタオルを手に持ち、自らの乳房を円を描くように入念に愛撫していく。

シャンプーの泡が白く泡立ち、その豊かな泡の中で股間をまさぐり、歓喜と官能に悶える女。全身が濃厚な泡にまみれ、湯気の中に浮かび上がるそのシルエットは、神聖な肉体の儀式そのものである。やがて彼女がステンレス浴槽の湯船へと身を沈めるとき、浴室の密室性は最高潮に達する。そして、その聖域を、外側の闇からじっと見つめるサラリーマンの眼がある。窓の隙間から漏れる光を浴びながら、彼は自らのイチモツを激しくしごき上げる。覗く者と、覗かれる者。この非対称な関係性の中で、男の全存在は視覚的な快楽へと純化していく。風呂から上がった女性の、弾けんばかりの肉体美。

それは男にとって、単なる視覚的刺激を超えた、生きている実感そのものであった。しかし、至福の時間は一瞬にして破られる。外の闇の中で、突如として現実の痛烈な一撃が男を襲う。痴漢!痴漢よ!誰か!風呂上がりでピンクのスカートに着替えた女が、狂ったように傘を振り回して男を攻撃する。暗闇に響き渡る悲鳴と、肉体を打つ衝撃音。ちょっと覗いたくらいで、警察だなんて……と狼狽する男に対し、何がちょっとよ!と女は烈火のごとく怒る。僕には妻も子供も……許さないわよ!

このダイアログは、それまで男が立脚していた市民社会の身分が、欲望の露呈によって一瞬にして剥ぎ取られていくプロセスを冷酷に描き出す。警察の取り調べ室、冷徹な蛍光灯の下で女の告発の声が響く。この間からパンティが盗まれたり、下着が汚されたりしてるんです。みんなこの人の仕業よ!そんな……僕は今夜はじめて……嘘!嘘に決まってるわ!きっと痴漢の常習犯よ!冤罪なのか、それとも潜在的な余罪の顕現なのか、その真偽は重要ではない。重要なのは、この瞬間、社会が彼に変態常習犯という消えない烙印を押したという事実である。

続く場面、巨大な高層ビル群が落とす深い影の中で、上司の冷酷な檄が飛ぶ。新聞沙汰にもなって、エリートの君がこんなことをするなんて全く考えられないことだな!会社の信用問題にかかわることだし、君にやめてもらうほかない!バブル期の東京を象徴するコンクリートの巨塔は、欲望に負けた敗者を容赦なく吐き捨てる。クビである。さらに絶望は続く。男が我が家に帰り着くと、そこには家としての機能は完全に消失していた。ガランとした、生活の体温を失った部屋。テーブルの上にポツンと置かれた離婚届と、一枚の置手紙。『愛想が尽きました。リュージを連れていきます。さようなら。

ミチコ』人間のクズ!最低!という、どこからともなく響く女のナレーション(それは社会の総意としての幻聴か)が、男の脳裏に突き刺さる。地位、名誉、家族、そのすべてを数分の覗きによって失った男は、誰もいない夜の公園のブランコに揺られている。カロリーメイトをかじり、缶コーヒーですする男の口から漏れるのは、社会への呪詛と、剥き出しの逆恨みだ。ちきしょう……あの女。何がクズだ。さんざん見せびらかしといて。貞淑な妻でございます……なんて呆れてものも言えやしねえこの台詞は極めて重要である。

男はここで、自らを被害者として位置づけることで、社会的なモラルから完全に決別するのだ。見せる側が悪いという、倒錯した、しかし彼にとっては絶対的な真理。もはや東京に彼の居場所はない。どこか地方にでも行って働くしかないな……男は、自らを縛り付けていたエリートの仮面を脱ぎ捨て、欲望の赴くままに生きる漂流者へと変貌を遂げる。第二章:リクルート社会へのアンチテーゼと、温泉郷のレズビアン・エロス東京を追われた男が辿り着いたのは、寂れた地方の砂浜、そしてひなびた温泉旅館であった。彼はそこで、旅館の番頭という新たな職を得る。

ここで小川監督の演出は、当時から今に連なる日本社会に対する強烈な批評性を帯び始める。テレビをつければ、就職やら転職やらスキマバイトを、異常なまでに煽り立てる広告が世に溢れ返っている。働け、ステップアップしろ、もっと輝かしい職に就け、自己実現しろ――。そうした、システムに人間を効率よく組み込むための就職・転職の強迫観念に対し、本作は覗きがバレてすべてを失った男が、ひなびた旅館の番頭に落ち着くという壮大なドロップアウトの物語をもって、痛烈なアンチテーゼを突きつける。誰がエリートなどに戻るものか。誰が従順な労働者として、再びあの高層ビルの影に埋もれるものか。

この旅館という、世間の目から隔絶されたトポス(空間)において、男は覗き放題という無限の自由を手に入れる。転職して、それこそが己の天職だったと確信するのだ。そんな旅館に、ある日、ただならぬ雰囲気を纏った女同士の宿泊客がやってくる。部屋に入り、互いに惹かれ合うように唇を重ねようとする二人の女。そこへ割って入る元サラリーマンの番頭。お風呂はいかがでしょう。乳房風呂が開いてますけど?おっぱいの形をしているだけですよ牛乳風呂かと思った他愛のない、しかしどこか歪んだエロティシズムを感じさせる会話。

二人きりでゆっくり入りたいという彼女たちのリクエストに応じ、じゃあ後ほどご案内に参りますのでと慇懃無礼に引き下がる男の目は、すでにギラギラとした猟奇の光を宿している。ついに実現した、女たちの密室。狭いステンレス風呂の中で、湯煙に巻かれながら抱き合う二人。それは、男たちの支配する現実世界から逃れてきた、彼女たちだけの秘密の聖域だった。久しぶりに二人きりになれたんじゃない……誰も触れない、ふたりだけの国。みんな私のものよその聖域を、壁の隙間から、あるいは障子の穴から、貪るように覗き見る番頭。

ここで展開されるレズビアンの情事は、当時のピンク映画の枠組みを超えた、圧倒的なエロティシズムの奔流となる。互いの肉体を貪り、愛撫の応酬は限界を知らない。まさにエンドレス・クンニとでも呼ぶべき、終わりなき愛の愛撫。シックスナインの体位で互いの性器を貪り食うその姿は、小川監督の演出によって、どこか神聖で、かつ狂気的な美しさを帯びていく。画面を支配するのは、双頭電動バイブの強烈な存在感だ。そのプラスチックの竿を、二人の女が仲良く、しかし飢えた獣のように舐め合い、そして互いの秘肉へと同時に挿入する。貝合わせのように重なり合い、絶頂へと昇りつめていく女たち。

その至高のレズを覗き見る番頭の興奮は、そのまま観客の興奮へと直結する。こっちまで興奮させられる……男はただの観客ではない。彼は視覚を通じて、彼女たちのふたりだけの国に不法侵入し、その快楽の分け前を強奪しているのだ。第三章:レッドマン・久須美護(欽一)の肉体性と乱痴気騒ぎ本作を映画史的な奇跡たらしめている最大の要因は、主演を務めた久須美護(欽一)という男の存在に他ならない。映画ファン、特に特撮映画の熱狂的な信者(マニア)であれば、久須美護(欽一)の名を聞いて震え上がらない者はいないだろう。

彼は、円谷プロが放った特撮史上稀に見る残虐・狂暴なヒーローとして知られる『レッドマン』において、その凶悪な立ち回りをすべて体現した伝説のスーツアクターなのである。それだけではない。『ウルトラマンレオ』におけるアストラ、『ミラーマン』、さらには東宝特撮におけるキングシーサーやアンギラスといった、怪獣・ヒーロー映画の歴史を裏から支えた生きるレジェンドなのだ。その世界的アクターである久須美が、本作では衣服を脱ぎ捨て、全裸で、剥き出しの欲望を体現する。このキャスティングの妙が、本作に異常なまでの躍動感(ダイナミズム)を与えている。

特撮現場で鍛え上げられた久須美のずば抜けた身体能力は、旅館の支配人(小川欽也監督自身が飄々と演じている)からお客さんにマッサージを頼まれたんだけど、代わりにやってくれないかと頼まれた瞬間に、一気に爆発する。部屋へ赴いた番頭を迎えるのは、ぱっと見、大橋純子と和田アキ子を足して美しく洗練させたような、見事なショートカットの肉感的な女優である。ちょっとでいいから揉んでくれない?そのリクエストに応じ、男が肩を揉み始めた瞬間から、部屋の空気は一変する。ねえ? あんた本当に番頭さん?

そういう雰囲気じゃないから……男の指先から伝わる圧倒的な力強さと、ただ者ではない肉体のオーラ。甘い吐息が女の唇から漏れ出す。もっと強く押して……愛撫は肩から背中へ、そして足から太ももへと、澱みなく滑り込んでいく。ここから始まるセックスシーンにおいて、久須美欽一の身体能力は遺憾なく発揮される。体位を頻繁に変え、重力を無視するかのようにアクロバティックに展開されるバリエーション豊かな絡み。それは、これまでの凡百のピンク映画が見せてきた、単なるお決まりのルーティンとしての性交ではない。

それは、肉体と肉体が激しく衝突し、互いの限界を試し合うかのようなアクションとしての性なのだ。ベッドの上で、女の太ももを割り、自らの肉体を複雑にくねらせながら、驚異的なスタミナで突き上げる久須美。その姿は、かつて怪獣たちをなぎ倒したレッドマンの、あの野獣のような躍動感を想起させずにはおかない。そして、至高のクンニ、激しいピストン運動の果てに、女の胎内へとすべてを解き放つ。良かったわ……快楽のあまり、全身を弓なりに硬直させて打ち震える女の表情が、画面いっぱいにクローズアップされる。

第四章:心中、クビ、そして狂気の自己正当化だが、この旅館での乱痴気騒ぎは、突如として不穏な影に覆われる。事後の会話、客の女と同じ酒を酌み交わしながら、男は先ほどのレズビアンカップルについて切り出す。レズの子……ええでもレズってよくわかったね雰囲気でわかりますよ。落ち着きがないしそうなのかしら? もしかしたら心中でもしにきたんじゃない?ええ、そんな意外と若い子ってこういうひなびた温泉を自殺の場所に選ぶみたいよ女の不吉な予感。しかし、男の頭にあるのは、モラルや人命救助ではない。

ただひたすらに、あの美しい女たちの肉体をもう一度、今度は間近で覗き見たいという執念だけだった。どっちでもいいわ。番頭さんは寝るだけなんでしょああ女は男の股間を再びまさぐりながら、もう1回どう? あなたもタフねえと誘う。お客さんも好きですねえクタクタになるまで……乳首をチューチューと音を立てて吸い上げながら、器用に右手を女の股間へと滑り込ませ、さっきしたばかりの情事を再開する男。そのタフネスの裏で、彼の覗き癖という病理は、もはや制御不能なレベルに達していた。夜更け。レズカップルの部屋。

男は、見つかったら見つかったで客の態度が悪かったから様子を見に来たとでも言えばいいと、凄まじい自己正当化の論理を胸に、部屋へと不法侵入する。ぐっすりと眠りこける二人の女。寝相の悪さゆえに、はだけた浴衣から覗く生白い股間。男が辛抱たまらずその秘部に触れた瞬間、彼の指先が、枕元に散らばる不穏な薬瓶に触れる。睡眠薬――。心中だ!自殺だー!心中だー!誰か110番~119番~!欲望を満たそうとした変態男が、突如として狂ったように人命救助の叫び声を上げるという、この喜劇的かつ不条理な反転。

翌朝、一命を取り留めたレズカップルの片割れ・和代の父親(堺勝朗)が駆けつけ、ただ覗いていただけの男に向かって娘を救ってくれたと深く頭を下げ、感謝の意を述べる。人命救助の英雄としての表彰。しかし、旅館の支配人(小川欽也)の目は誤魔化せなかった。あんなに大騒ぎされたら他のお客さんに迷惑でしょ!心中が出た旅館の噂なんて立てられたら!しかも、お客の部屋に覗きにいくなんて……!二人の様子がおかしくて……ごまかしなさんな!今日限りで出てってもらいます!何か言いたいことあるんですか!急に言われても……無事にクビである。社会から二度目の追放。

きらめく海辺、打ち寄せる波頭を見つめながら、男はぽつりと呟く。これで2度目か……覗きは高くつくなあ……この、哀愁を帯びながらも全く反省の色がない、カラッとした台詞が素晴らしい。そこへ、再び和代の父親が息を切らせて駆けつけてくる。これから先のあてはありません。東京に戻って……と言う男に、父親は言う。私が悪いんです。大騒ぎしたから……。でも、騒いでくれたおかげで娘は助かった。死ぬ気はなかったんでしょうが……。これもうちの縁だ。もしよければ、うちで働いてみませんか? ラブホテルですが……ラブホテル!

覗き魔にとって、これ以上の聖地、これ以上のパラダイスがこの世にあるだろうか。是非!お願いします!どこでもいいんです、仕事があれば!男は歓喜の表情を抑え、快諾する。こうして、元エリートサラリーマン、元温泉旅館の番頭は、欲望の最終終着駅であるラブホテルの従業員へと、見事な三段跳びの転職(天職)を果たすのである。第五章:ラブホテルの盗聴黙示録と、底なしの常習性ラブホテルでの新たな生活。男はもはや、自らの欲望を隠そうともしない。ラジカセを片手に、部屋の有線や盗聴システムをいじくり回しながら、彼は確信する。お客の声を聞くってのも、覗きの一種だな。

しかし、失敗してもなかなかやめられるもんじゃないこの台詞は、本作から数年後に現実の日本社会を震撼させることとなる、あの田代まさしの覗き・盗撮事件の底なしの常習性、その病理的な構造を恐ろしいまでの精度で予言している。一度そのスリルと快楽の味を占めた脳は、社会的な破滅を何度経験しようとも、絶対にそこから抜け出すことはできないのだ。そんなある日、あの心中未遂を起こした和代が、婚約者の川村を伴って、男のホテルへと客としてやってくる。おじさん、こんにちはああ、これは……この間はお世話様もうすっかりいいの?ピンピンよ。おじさんのおかげ。私の命の恩人よ。

紹介するわ、この人、川村さん。私と結婚することになってるの。私が無理心中させられそうになったとき助けてくれた番頭さん。他のホテルだとお金かかるでしょ? ここだったらタダで使えるもん!……今度は覗いちゃイヤよ!笑顔で部屋へと消えていく若い二人。その背中を見送りながら、男の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。覗いちゃイヤよ!か。そう言われると、かえって見たくなるもんだ禁止されることで、欲望はさらにその熱量を増す。だが、映画のクライマックスを飾るのは、この和代たちではない。さらにドス黒い、人間のエゴイズムが渦巻く人妻との邂逅である。女の名は秀子。

彼女は浮気相手の男とこのホテルで待ち合わせをしていた。しかし、元番頭の男の策略により、浮気相手の男は1時間ばかり遅れるという嘘の連絡を入れさせられ(実際には男はすでに別の部屋に待機させられている)、秀子は一人、ホテルの廊下で立ち往生する。その隙を、男は見逃さない。盗聴器付きのラジカセをセットし、壁に耳を当てて隣の部屋のまぐわう音(他の客のものだ)を聞きながら、秀子は自らの胸を激しく揉みしだく。その興奮が頂点に達したとき、ホテルの不審な動きを察知して他人の部屋に入ろうとした秀子に対し、男は鋭い声をかける。警察に届けますよ恐喝の開始である。怯える人妻。

なんでもしますから……今度は泣き落としか。その手は古いよ、奥さん警察に言わなければ、なんでもするわ!男の目が、暗闇の中で獣のように爛々と輝く。覚えているかい? 暗がりだからわからなかっただろうが……。あんたにサツに、女房子供にまで愛想を尽かされて、そんなことはどうでもいいや! 何でもするって言ったよね? まずは服を脱いで……。俺はあんたの家も知ってる。浮気が旦那にバレたらどうなるだろうなここに至り、男の復讐劇(それは自分を社会から追放したすべての『女』と『モラル』に対する復讐だ)が完成する。さあ、おフェラしてもらおうか下着姿でベッドに横たわる久須美欽一。

その足元にひざまずき、必死の形相でしゃぶり始める人妻・秀子。後ろにのけぞる秀子の豊かな胸に、男は貪欲に舌を這わせ、パンティ越しにその割れ目を強烈に愛撫していく。早くちょ~だい……と、恐怖からいつしか快楽の奴隷へと変貌した女の懇願に応え、男は一気にそのペニスを挿入する。狂おしいまでのピストン運動。あんたが変な気を起こして、俺を警察に突き出すようなことをしなければな……じゃあ、時々こうやって会いに来てくれるかな?いいともーあんたも嫌いじゃなさそうだし……男は、自らの不道徳の極みの中で、至高の真理に到達する。

覗きも浮気も危険がつきまとうけど、なかなかやめられるもんじゃないね。スリルはなんとも応えられない。いつまで経ってもやめられないね、ねえ奥さん?秀子の体を舐め回し、情事は二回戦へと突入する。女上位の体位で激しく喘ぎ、狂い悶える秀子。ラブホテルの天井や壁に張り巡らされた鏡(ミラー)に、自らの淫らな喘ぎ顔と悶絶顔が映し出される。その視覚的な自己認識が、さらに女の快楽を増幅させる。男は下から、その豊かなパイパイを思う存分に揉みまくり、揉みちぎる。そして、映画のラスト、画面を覆い尽くすのは――。覗き見る男の、巨大な、充血した眼球のアップである。

その瞳には、モラルも、倫理も、社会的な義務も一切映っていない。ただ、眼前の快楽を永遠に吸い尽くそうとする、人間の根源的な視線そのものが、スクリーンを圧倒的な暴力性でジャックするのだ。暗転。終の文字。結章:小川欽也の職人魂と、映画という名の欲望装置本作『痴漢覗きは最高』を、過去に量産された有象無象の悪趣味なピンクの一つとして片付けることは、映画に対する最大の冒涜である。

2024年12月10日、享年89歳でこの世を去った巨匠・小川欽也。彼は生涯で400本を超えるピンク映画を世に送り出し、日本のエクスプロイテーション映画の歴史を文字通りその肉体で支え続けた。かつて、大学時代に小川組のセカンド助監督として現場に入り、のちにチーフ助監督、そして自らも映画監督となった細山智明が語るように、小川監督の現場は徹夜を好まず、非常に効率のよいカット割で、迷うことなくどんどん撮り進めていくという、驚異的な職人技(クレバーさ)によって支配されていた。自分で脚本(本作では水谷一二三名義など)も手がけ、現場のアクシデントにも臨機応変に対応する。

スタッフを怒鳴ることもなく、飄々と、淡々とフィルムを回し続けるその姿は、真の意味での映画の神職であった。一部の批評家たちは、小川欽也や新田栄の作品を田吾作映画などと一蹴し、洗練を欠いた泥臭いものとして嘲笑し、まともな論評の対象から除外してきた。ピンク映画の表現形式を借り、本来のピンク映画の客層と乖離した小難しい論を語りたがる、そういう知的操作が可能な作品ばかりを優遇されてきたのかもしれない。しかし、小川欽也はそんな頭でっかちな批評家たちの顔など、最初から一切見ていなかった。

彼が向いていたのは、ただ一つ――実際に映画館に足を運び、入場料を払い、暗闇の中で己の性的な欲望を充填しようとしている、本物の観客たちの顔だけである。そこには、教訓もクソもない。本作を観終わって映画館を出たとき、観客の手に残る高尚な社会的メッセージなど何一つない。得られるものなどゼロだ。有意義な時間を求める現代のタイパ至上主義者どもへの、これ以上の痛烈なビンタがあるだろうか。我を忘れて、日々の労働の苦痛や社会の理不尽をすべて忘れ、ただただ銀幕に展開されるエロスとスリルに身を委ねる。その一瞬の無意義な忘我の境地のために、小川監督は全精力を注ぎ込んだのだ。

周防正行監督がのちに日本の司法制度を告発した名作『それでもボクはやってない』を撮った際、そのタイトルやプロットの背景に、大蔵映画をはじめとする日本の成人映画界が連綿と作り続けてきたこれら無数の痴漢映画覗き映画の歴史が、巨大な伏流(下敷き)として念頭にあったことは疑いようがない。社会が痴漢という現象をどう扱い、人間がそれをどう覗き見てきたか。その本質を、小川欽也は1989年の時点で、エンターテインメントの極致として完璧に昇華させていたのだ。

小川監督は、幻のアイドルグループ乙女隊と新田純一、そして名優・坂上二郎が奇跡の共演を果たしてしまった未公開のアイドル映画『乙女はいつか星になる』を準備し、その主題歌のデモテープを大事そうに車の助手席でスタッフに聞かせていたという。私が死ぬまでに見たいその映画、そして本作『痴漢覗きは最高』が持つ、映画に対する無条件の愛と欲望の全肯定。それこそが、映画監督とは映画を撮ることが仕事であるという、この世界で最もシンプルで、最も過酷な真理を貫き通した本物の映画監督の証なのだ。『痴漢覗きは最高』――このタイトルを口にするとき、我々は冷笑を捨てねばならない。

なぜならここには、人間の剥き出しの生が、久須美欽一の驚異の肉体を通じて、今もなおスクリーンの中で狂おしく、熱狂的に爆裂し続けているからだ。これぞまさに、映画史の闇に燦然と輝く、永遠の黙示録である。

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