【声優】三ツ矢雄二を聴く【上杉達也】【猿飛肉丸】【乙女座のシャカ】タッチ さすがの猿飛 聖闘士星矢
民主不是完美的制度,但卻是最不壞的制度。
—— 邱吉爾
三ツ矢雄二みつや ゆうじ三ツ矢 雄二プロフィール本名三ツ矢 雄二[1][2]愛称ゆうこりん[3]性別男性出生地 日本・愛知県豊橋市[4]出身地 日本・愛知県名古屋市[4]生年月日1954年10月18日(70歳)血液型A型[5]職業声優、俳優、音響監督、ミュージシャン、タレント事務所ミツヤプロジェクト公式サイトYUJI MITSUYA OFFICIAL WEB SITE公称サイズ(時期不明)[4]身長 / 体重158.5 cm / 55 kgスリーサイズ95 - 70 - 85 cm靴のサイズ24 cm声優活動活動期間1976年[6] -ジャンルアニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーションデビュー作葵豹馬(『超電磁ロボ コン・バトラーV』)[5][7]俳優活動活動期間1967年 -ジャンルテレビドラマ、映画、舞台デビュー作エキストラ(『名探偵カッチン』)[8]声優:テンプレート | プロジェクト | カテゴリ三ツ矢 雄二(みつや ゆうじ、1954年〈昭和29年〉10月18日[4][注 1] - )は、日本の声優、俳優、音響監督、ミュージシャン、タレント。
愛知県豊橋市出生、名古屋市出身[4]。経歴名古屋市立自由ヶ丘小学校、名古屋市立千種台中学校、愛知高等学校[4]、東京の専門学校を経て[10]明治大学文学部文芸学科文芸学専攻卒業[5][7]。生い立ち愛知県豊橋市で誕生し、生後1年位に名古屋市に転居[4]。きょうだいの上に両親とも働いていたことからカギッ子で、やることがないため塾のハシゴをしていたという[11]。その時は絵画教室、オルガン教室、習字教室、そろばん塾に通っていたが、いずれも長続きしなかったという[4][5]。キャリア小学4年生の時に合唱部に所属[2][5]。
音楽の教師に勧められたこと、隣家にテレビ局勤めの人物がいた関係で、10歳で中部日本放送で放送されていた素人ちびっ子のど自慢番組『どんぐり音楽会』に出場し、優勝[4][6][9]。この時、審査員の一人から「三ツ矢君の声はオペラ向きだね」と評され、歌いながら芝居をするオペラというものがあることを知った[10]。これをきっかけとしてテレビ業界に興味を持つようになり、中学校入学と同時に国際児童劇団に入団[4][12]。子役としてのデビューは、『名探偵カッチン』のエキストラ[8]。
翌年、その後番組である『海から来た平太』のオーディションを受け、主役として合格[4]。その後は、地元名古屋だけでなく近畿地方にも進出し、関西テレビや近畿地区のNHK、京都の撮影所などでも仕事をこなすようになる。また中学3年生から、NHK名古屋で制作されていた『中学生群像』(『中学生日記』の前身)に生徒役でレギュラー出演し、全国放送にも登場するようになった[4]。高校卒業後は、元々興味のあった演出や脚本を学ぶため東京の専門学校に入学し[10]、上京して大人の役者を目指し始める。
しかしその途端にオーディションに通らなくなり、本人はその理由について身長が158センチしかなかったことを挙げている[13][注 2]。同時にジャズシンガーになりたかった時期もあり、親には内緒で、子役の頃の貯えを使ってアメリカ合衆国へ渡り、半年ニューヨークに行っていた[2][8][11]。その後ニューヨーク、シカゴを中心にベビーシッターをしながら3ヵ月ほど過ごし、ヨーロッパを回って帰国した[11]。
しかし帰国後、「さあこれからどうしよう」考えたときに、旅行中「やはり大学へ行って4年間を執行猶予期間にして進む道をゆっくり考えよう」と思ったことに加え[2][11]、その後脚本家になる上で壁にぶつかったため、専門学校卒業後に20歳で明治大学文学部文芸学科に合格し、大学生となった[注 3]。大学時代は外で演劇をしていたことから、「大学では音楽をやってみよう」と考えていた[7]。ミュージカルなどでジャズの曲が歌われることが多かったこともあり、ジャズ研究会に所属して、ボーカルを担当していた[7]。
舞台がしたかったこともあり[12]、大学入学直後に知り合いから演出家の蜷川幸雄を紹介され、彼が所属していた「舞プロモーション」に所属して芸能活動を本格的に再開[5]。所属事務所はその後、青二プロダクション[12]、ぷろだくしょんバオバブ[14][15]、NPSテアトル[11][16]、アーツビジョン[17]、大橋巨泉事務所[18]、Y・M・O(旧・ラブライブ)[19]、ブリングアップ[20]、コンビネーション[21]に所属していた。“鬼の蜷川”と称される彼に演技指導を受け[注 4]、『王女メディア』で舞台デビュー[12]。
蜷川の舞台を一から作り上げる作業を間近で見たことは、後に三ツ矢が劇団を作る時の基礎となった[10]。声優・音響監督としてその後も演出・脚本などの基礎を学びながらアルバイト生活を送る中、子役時代のディレクターに「人形の声をやらないか」という話を受けて人形劇『プルルくん』に出演[12]し、これが声のみでは初の仕事となった。また、俳優としても刑事ドラマ・時代劇などに出演するようになった。『プルルくん』最終回後の打ち上げにおいて、永井一郎に勧められたことがきっかけとなり、アニメ『超電磁ロボ コン・バトラーV』のオーディションに参加(詳細は後述)。
結果主役に抜擢されて正式に声優デビューを飾り[10]、以後声優としてのキャリアを積み重ねていくこととなった[5][12]。仕事が順調に増え、1984年には声優仲間を集めてミュージカル劇団のプロジェクト・レヴューを設立するが[12]、赤字がかさんで1990年には無一文になってしまう。その際、養成学校の講師と演劇雑誌の編集長の話を持ちかけられる。三ツ矢にとってどちらも経験のない分野だったが、それを引き受け翌91年より養成に携わる。
1997年には養成所「ミツヤプロジェクト」と劇団「アルターエゴ」を結成。声優活動、ディズニー作品などの吹替えなどに出演する一方、声優育成のための後進指導を行う。『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』で初めて音響監督を担当して以降、スタッフ業にも進出(音響監督業では、録音演出またはアフレコ演出の肩書きも持つ)。現在まで2011年10月に、テレビ番組『お願い!ランキング』の声優特集に顔出し出演して以降、民放各局のバラエティ番組にゲスト出演することが増えている。
2013年、第7回声優アワード「富山敬賞」を受賞[22]。
2017年1月25日に三ツ矢雄二、井上和彦、水島裕の3人でランティスからFULL KabsとしてCDをリリースした。同年のバラエティ番組でゲイをカミングアウトして以降、LGBTQの講演会などに講師として呼ばれるようになった[10]。また、東ちづるが理事長を務める“まぜこぜの社会”を目指す一般社団法人「Get in touch」に理事として参加している[注 5]。人物・特色声種はテノール[14]。声優としては、誇張された女性語(いわゆるオネエ言葉)を話す男性キャラクターを得意としているが、ほかにも真面目なキャラクターから間の抜けたキャラクターまで、年齢や性格を問わないさまざまな役を演じている。『魔物ハンター妖子』や『ナースエンジェルりりかSOS』では、男性でありながらヒロインの祖母役を演じた。
2017年には63歳で小学生役をこなしている[23]。演劇でも舞台版『ミュージカル水色時代』『ミュージカル少女革命ウテナ』などの脚本・演出、『ミュージカル テニスの王子様』などの脚本・作詞を行うなど、演出家・脚本家・作詞家としても活動している。本人によれば「まさかの時の三ツ矢頼み」という言葉もできたほどだという[13]。また、声優ユニットバンド「スラップスティック」の初代キーボード担当として、数々のレコードをリリースし、テレビやライブなどで活躍した[24][25][26][27][28]。
バラエティ番組などでは「オネエ」キャラとして知られていたが、自身の実際のセクシャリティについては「グレーゾーン」としてきた。しかし、2017年1月13日(同12日深夜)放送のテレビ東京『じっくり聞いタロウ〜スター近況(秘)報告〜』出演時に、ゲイであることを告白した(詳細後述)。1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第24位に選ばれる[29]。趣味は吉方旅行、DVD鑑賞、読書[4]、気学[5]。座右の銘は「なるようになる」[5]。
好きな言葉は「Going my way」「Take it easy」[11]。20歳の頃、「将来やりたいこと」として以下のことをノートに書き留めた。「劇団を作る」、「芝居の脚本を書く」、「レコードを出す」、「ミュージカルに出る」。これらの願いは、その後全部達成できたという[10]。
2021年の秋に人間ドックで前立腺がんが見つかったが腫瘍が小さく、医師から「今の所まだ手術の必要はありません」と告げられたため、現在(2023年1月)は様子見の状態である[10]。元々酒が強く、以前は朝方まで飲むことも多かったが、2022年5月に膵炎にかかった(その後完治)ことを機に飲む量を減らし、休肝日も設けるようになった[10]。3人きょうだいの末っ子で姉と兄がいる[11][30][31]。エピソード声優としての本格デビューの経緯『プルルくん』への参加は、子役時代に世話になっていたNHKのディレクターに出会ったことがきっかけだった[5][12]。
その後『プルルくん』の最終日の打ち上げで永井一郎から「きみ、面白い声しているね」[10]と『超電磁ロボ コン・バトラーV』のオーディションを勧められた。そのオーディションの結果、新人にもかかわらず主役(葵豹馬役)に抜擢された[5][12]。当時、映画やテレビでもアフレコを経験していたが、声優の仕事自体はしたことがなかったため、関係者から「『宇宙戦艦ヤマト』のスタジオを見てこい」と言われ、勉強のためにスタジオへ見学しに行った[32]。
それまで役者経験は豊富だったが、『コン・バトラーV』では唯一新人声優だったこともあり慣れない声での演技にNGを連発した[注 6]。共演した先輩声優・富田耕生は演技指導が厳しく、「ちゃんと絵を見ろ!台本ばかり見るな!」などと怒鳴られることもあった。同じく先輩の野沢雅子とは家が同じ方向だったため仕事終わりに車で送ってもらい、その道中口頭で丁寧に演技指導をしてくれたという[注 7]。本人は後年、「声優としての基礎を指導してくださったお二人にはとても感謝しています」と述べている[10]。
同番組終了後アニメの仕事が次々と舞い込み、『キャンディ・キャンディ』、『超人戦隊バラタック』などに出演。
1970年代後半からのアニメブームもあって、当時は週にレギュラー11本を抱えた[10]。以後、本格的に声優業を行うようになり、1980年前半にはアイドル声優としてレコードも出した[10]。この時期には『ハーフボイルドストーリー 三ツ矢雄二の半熟話』(徳間書店・アニメージュ文庫、1984年)を刊行している。友人関係、交流最初に東京に出てきたときにあまりに芸能界が乱れていたことに驚いたが、その後声優界に入って最初に親切にしてくれたのは同い年の井上和彦だった(学年は井上のほうが上)。
井上に出会わなければ東京を去っていたかもしれないとも語っており、「同い年だが心の中ではお兄さんだと思っている」「(井上のおかげで)こんな良い世界なら声優の世界に入ってみよう(と思った)」とも語っている。また一つ年下の水島裕も加えてデビュー当時は「三人若手衆」「ヤングライオン」と呼ばれており、二人は三ツ矢にとっての「戦友」といった存在だと言う[33]。自ら「腐れ縁」と称する戸田恵子や竹下景子との付き合いは、『中学生群像』に出演した頃からである。
ただし同作では竹下とは同じ中学3年生役だったが、中学1年生役だった戸田とは当時撮影現場で接する機会はほとんどなかった[10]。また互いに独身でもある戸田とは年に一度は海外旅行(ブロードウェイの舞台鑑賞[10]など)に行くほどであり、戸田のブログで度々話題に挙がっている。このほか、戸田からは「ゆうこりん」の愛称で呼ばれており、『それいけ!アンパンマン』では30年もの長期に渡りセミレギュラーでいるため、旧知の仲である。
三ツ矢は戸田らについて「僕の前では裸になれる仲」としていながらも[34]、実際に戸田が三ツ矢とあるホテルに滞在した際に入浴中に忘れ物をしたと浴室から全裸で現れた際は困惑してしまったという[35][注 8]。竹下は三ツ矢が下積み時代に東京進出後には直ぐに売れっ子スターとなり、竹下が仕事で留守中の自宅マンションへ頻繁に出入りして当時から自宅の鍵を預かる程信頼されており、一日中留守番をしつつ真夏には当時まだ珍しかった家庭用クーラーの電源を入れて涼みながら竹下が帰宅するまでくつろいでいたという。
先述の戸田に加え同じく子役出身である冨永みーな、鶴ひろみらと親交があり、三ツ矢の誕生日には毎年の様に集まっていた。戸田によると三ツ矢の63歳の誕生日を祝っての会食となった2017年11月13日[36]が鶴が三ツ矢らと会った最後の日になってしまったという[37]。 SMAPのメンバーとデビュー時からしばらく舞台などで仕事をすることが多く、その所縁で後年『SMAP×SMAP』に出演することも多かった。
ある現場では稲垣吾郎に好意を持ったとされ、稲垣自身は「僕は三ツ矢さんだけのものではない」と困惑したというが三ツ矢本人は草彅剛の方が好きだったと明かしている[38]。『タッチ』で共演した日髙のり子からは後年、「バラエティ番組などでは一見おおらかで表面上はある種のいい加減さを見せていても、本当は繊細で誰よりも優しい。だから『タッチ』で上杉達也を演じられた時も、繊細な心理を表現できたんです。音響監督や演出家として共演した時は、声優や役者の個性を尊重してくださる印象があります」と評されている[10]。
マーグ人気『六神合体ゴッドマーズ』では、主人公・明神タケル=マーズ役、ストーリーの途中で死亡することが当初から決まっていた兄・マーグ役、両方のオーディションを受けていた。三ツ矢は「兄貴の方が早く死ぬらしいぞ」と言う噂を聞いており、ディレクターやプロデューサーから「狙うなら(長く出演できる)弟を狙え」と薦められたが、結局両方受けることになった[32]。選考の結果、マーズは水島裕に決まり、三ツ矢はマーグ役に決定したが、放送が開始されるとマーグは予想以上の人気を博し、女性を中心に多数のファンが付いた。
作中でマーグは死亡し、その後ファンが行ったマーグの葬式では、喪服を着て出席した[32]。この人気を受けて、マーグの魂が弟をサポートする形で復活、最終回のエンディングで『十七歳の伝説』の歌唱を担当し、ヒット賞を受賞し表彰された[32]。さらに、マーグを主人公とした劇場版やOVAも製作される。後年になっても、CS放送などで再放送される際には三ツ矢がマーグとして番組予告を行っていることがある。これらの経緯から、三ツ矢は「結果的にはマーズ役に落ちて良かった[39]」、「ゴッドマーズは棚ぼた仕事だった、人気があれば役が復活するんだ」とも語っている[32]。
洋画吹き替えアニメで活躍する一方で、三ツ矢は洋画吹き替えの方にも積極的に挑戦し、名作・大ヒット映画の主役の吹き替えを数多く務めた。三ツ矢は「洋画の吹替の場合は、まず海外の俳優さんがいて、その人が有名であればあるほど一般の方がイメージを持っているので、その俳優さんに即した演技や声を第一に考えながらやっています」とアニメとの役作りの違いについて語っている[40]。持ち役としてはマイケル・J・フォックスが挙げられる[18]。
三ツ矢は自身のターニングポイントとなった作品として『アマデウス』(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト役)を挙げており、当時のことを「名作映画で、しかも周りをベテランの方たちが固めている中に、若手がぽんと入ったような感じだったので、すごくプレッシャーがありましたが、終わった時に皆さんにすごくほめていただいて、初めて洋画の代表作ができたと思いました[40]。」と振り返っている。
またこの吹き替え版が長年ソフト収録されていなかったことに不満を持っており、それが初めてBlu-ray収録され、しかもディレクターズ・カット版の追加収録という形で再びモーツァルトを演じた際[41] には「本作がリリースされ、追加シーンで同じ役を30年ぶりに演じられるという事は一番の喜び。これでもう思い残すことはない。」と喜んでいた[42]。マイケル・J・フォックスの吹き替えについては、『ティーン・ウルフ』で初担当。
後に聞いた話によると、本作は一種のオーディションで、「ここで大丈夫そうだったら『BTTF』(後述)に起用しよう」という流れがあったといい、「僕にとっては「ティーン・ウルフ」がなければ「BTTF」もなかったんですよ」と振り返っている。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は公開時に劇場で鑑賞したことで「凄く面白かった」と感じたと当時に、「このマイケル・J・フォックスの役は自分に合っているんじゃないか?ぜひやってみたいな。ただ、こんな大作はやらせてもらえないだろうな…」と思っていたことからオファーがあった際は「代表作が増えたぞ!
」と喜びを感じ[43]、実際のアテレコ現場でも役とシンクロして演じることが出来たという[44]。民放での放送にもこの吹替が使用されることが多かったため、世間における認知度も高く、実際に民放で本作が別の吹き替え版で放送されると「何故三ツ矢版じゃないのか」という声が続出する程の支持を得ている[45][46]。トンガリの演技『キテレツ大百科』では、トンガリ役を担当することになる。三ツ矢はこの際、「トンガリは脇役だが、インパクトの強いキャラクターにすれば、出番が増えるかもしれない」と考え、徐々に甲高い声での独特の言い回しや叫びを多用。
この演技を見た音響監督の小松亘弘からは、「無理をしなくていい」と言われたこともあったという。結果的にトンガリは8年間の放送の中で、ほとんどのエピソードに登場することとなった。喉を痛めて入院した際、消灯時間後に三ツ矢の病室を訪れた看護師数人から、「トンガリの声を出してほしい」と依頼されたことがあったという。この際、三ツ矢は深夜にもかかわらず要望に応えたと語っている[39]。タッチ『タッチ』では、「弟(上杉和也)の方が死ぬぞ」という噂を聞き、長生きする兄・上杉達也のオーディションを受けた。
当時の三ツ矢は、『さすがの猿飛』の猿飛肉丸など、三枚目や人間以外の役を多く演じていたため、二枚目の上杉達也役ということで、プロデューサーが気を使ってくれたらしく、覆面オーディション形式で行われ、名前ではなく番号のみで呼ばれていた。プロデューサーとディレクターから「絶対兄さんの方が、役的に複雑だから勉強になるから、絶対オーディション頑張れよ」と陰で言って貰い、結果合格した[32]。『タッチ』は最高視聴率31.9%を記録するほどの大ヒットアニメとなり、三ツ矢の最大のあたり役となった。
原作者のあだち充からは最初は違和感があったが耳に馴染んでいき、描いていると声が聞こえてくるようになったと言われたという[47]。弟・上杉和也役に受かった難波圭一に対して、「死んじゃってもね、人気があってファンが騒ぐとね、生まれ変わるよ(上記のマーグ人気のこと)」と言ったが、結局生き返らず、難波から「なんだ、生き返らなかったじゃないですか」と言われ、「SFと現実物とは違うね」と謝った[32]。
浅倉南が高架下で泣いているシーンにおいて、音声を入れずBGMを流すという演出がなされ、居合わせていた達也の台詞も無かったが、監督から「三ツ矢くん、心の中では号泣しているんだけど、でも聞こえてくる声は、泣いてなくて渇いてるんだよね」とダメ出しされたことがある[32]。上杉達也は自身と正反対の役で格闘・苦労したと同時に、やり易かったとも述べている[32]。野球の知識『タッチ』で主演したことから、放送からしばらくは高校野球のレポーターなど、野球関連の番組に出演する機会も多かった。
しかし元々三ツ矢本人は基本的なルールやポジション名を知らないほど野球に対して無知なため、呼ばれる度に現場での反応に困っていたという。野球を知らなかった理由としては、子供の頃から芸能活動をしていて忙しかったため野球を見たりやったりする機会がなかったこと、父親は野球好きだったが無口で野球に関する会話をしなかったこと、兄弟もお互いに干渉しなかったため教えてくれなかったことなどを挙げている[32]。また三ツ矢以上に野球番組への出演機会があった日高のり子は、よく「三ツ矢と野球の繋がり」を聞かれ、その度どう言うべきか悩んだという[39]。
ネルケプランニング演劇関連で、知人関係だった松田誠が社長を務める演劇プロデュース会社「ネルケプランニング」(以下ネルケ)がアニメ作品のキャスティング業に進出するとそれに協力。かつて講師を務めていた代々木アニメーション学院の教え子をネルケと繋がりのあるプロダクションへ斡旋した。
以降、アニメ業界への関わりはネルケ中心へとシフトしていき、2009年に自らの事務所を設立するまでネルケ関連の事務所へ在籍し日本俳優連合(日俳連)の組合員である立場とは反対に、ネルケと対立する組合側組織とは徐々に疎遠になっていったが、個人事務所を設立する現在はネルケ、組合等関係なく出演をしている[要出典]。舞台、脚本業27歳の頃、上京時に立ち返って“そもそも何をしに東京に来たのか”と自問自答し、「舞台やもの作りがしたい」という原点を思い出した[10]。
舞台の中でも特にミュージカルが好きだったため、仕事を全て降りて1ヶ月間ニューヨークに滞在し、本場ブロードウェイミュージカルを見まくった[10]。帰国後、友人・戸田恵子とのジョイントコンサートの中で短いミュージカルをすることになり、その時書いたオリジナル作品『ジミーとジョアン』が初脚本となった[10]。30歳の時、声優仲間の田中真弓と念願の劇団を旗揚げした後、自らの脚本・演出による公演を年4回のペースで行った[10]。しかし、ミュージカルは一般的な舞台よりお金がかかり[注 9]、資金繰りが大変で経営が赤字になった[10]。
劇団は5年ほどで解散したが、この舞台経験はその後脚本や演出をする上で大いに役立ったという[10]。
1991年にアニメ『聖闘士星矢』がミュージカル化される時に上記の経験から脚本家として起用され、その後『ミュージカル・テニスの王子様』なども手掛けることになった[10]。音響監督(アフレコ演出)としての活動声優としての活動以外にも、音響監督(アフレコ演出)[注 10]として裏方の活動も行っている[10]。アフレコ演出という肩書を使用している理由は「ダビング作業はやらない方針」があるからとしている[48]。初めて音響監督を担当した作品は、1996年のアニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』である[10]。
主人公・緋村剣心役に抜擢された涼風真世が宝塚歌劇団出身の女優だったため、宝塚の演技とアニメの演技の合体を上手く演出してくれる人ということで、舞台とアニメを知っている三ツ矢が音響監督をやるよう頼まれた[10]。放送開始時は仕事に慣れるまで自分の名前を出さずに、音響監督に従事していた。3か月後、プロデューサーが「三ツ矢さんが慣れたと思うのでチェンジします」と涼風に伝えると、「三ツ矢さんじゃないとできない」と言ったため、音響監督を続投となった。アニメ制作がスタジオぎゃろっぷからスタジオディーンに交代となったのを境に、三ツ矢の名前も出るようになった[32]。
本作の評判が良かったことから、以降様々な作品で音響監督を依頼されるようになった[10]。出演者が登場人物の演技に詰まった場合、自身で手本を見せて、具体的に指摘するというアフレコ演出としての指導も行っている。その後、音響監督本来の仕事が忙しくなったため、声優が出演しているものは演出しなくてもいいと考えるようになり、特殊なもの以外は全て降板し、子役が出演している『クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!』のみは担当していた[32]。
なお、アフレコ演出という肩書を名乗る以前から自身が主演する番組で声優歴の浅い共演者[49] に演技指導をすることもあった[要出典]。後年のバラエティ出演声優の仕事が落ち着いてきた50代の頃、バラエティ番組から声がかかったことで顔出しでタレントとして活躍の場を広げた[10]。当初は過去の担当したアニメの様々な声を再現するだけで喜ばれていたが、ある日オネエ系キャラ(本人曰く「グレーゾーン」)によるトークを披露した[10]。放送後、周りから「あの『タッチ』の上杉達也を演じた声優が、実はオネエ系キャラだった」という意外性が話題となった[10]。
以降多くのバラエティ番組に出演し、本人なりに頑張ってトークで場を盛り上げ続けた。しかし徐々に心身に負担に感じたことで「バラエティは、自分には向いていない」と思うようになり、バラエティ番組の仕事は控えている[注 11]。ただし、声優としてのトーク番組には、気負うことなく本音で話せることや、声優の仕事をもっと知ってもらいたいとの思いから2023年現在も出演を続けている[10]。セクシャリティ上記の通りバラエティ番組ではオネエ系キャラとして振る舞っていたが、実際のセクシャリティについては「グレーゾーン」と曖昧に表現するにとどめ、明言せずにいた。
しかし実際には私生活では小学校高学年の頃には既に恋愛対象は同性で、その後の友人や仕事仲間にはゲイであることは周知の事実だった[10]。20歳の時に同い年の男性と交際し、12年間付き合った[10]。田中真弓の仲介で大塚芳忠と1回だけ男同士のデートをした事もある。
2017年1月12日放送のテレビ東京系番組『じっくり聞いタロウ〜スター近況(秘)報告〜』において「ゲイかストレートかと言われればゲイ」であると告白した。それまで「グレーゾーン」と言葉を濁していたのは、「会社勤めをしている兄がおり、会社で何か言われると兄に迷惑がかかると思ったので、兄が定年退職するまではちょっと曖昧にしておこう」という意図だったという[50]。カミングアウトに至った理由については、兄が定年退職したこと、また声優として最近演じている役は(二枚目のキャラクターなどではなく)宇宙人や動物などが多いため「もうこの際いいや」と思ったことの2点を挙げている。また同時に性的マイノリティの俳優がセクシャリティを明らかにする、あるいは隠すことの是非については、その職業の特殊性から「役者はゲイであることを隠していても僕はかまわないと思う」と持論を展開し話題となった[51][52]。なお、兄は2023年1月に死去したという[53]。翌年24年5月に上梓した著書『曲のない詞 自伝的エッセイと曲のついていない書き下ろしの詞』(ネルケプランニング)で、改めてカミングアウトした。