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セクシーアップ 桃色乳首 (1985) Hidekazu Takahara
Internet Archive · pinku-eiga-society·2026-08-13·Hidekazu Takahara

セクシーアップ 桃色乳首 (1985) Hidekazu Takahara

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真相是穿越時間的箭矢。

セクシーアップ 桃色乳首 (1985) Hidekazu Takahara

昭和の黄昏、1985年のネオンサインが濡れたアスファルトに怪しく反射する爛熟の東京。ピンク映画界の金字塔であり、後に映像表現のあらゆる境目を縦横無尽に横断することになる怪物、高原秀和(当時・弱冠23歳)の怒涛の産声——それが1985年ミリオンフィルム制作『セクシーアップ 桃色乳首』である。表題も、章立てすらも、この過剰な熱量の前では邪魔な障害物に過ぎない。

我々はいま、80年代日本の高度経済成長の残り香と、バブル前夜の浮かれた虚無感が交錯する街角で、23歳の若き才能がフィルムという暗闇のキャンバスに炸裂させた、生々しくも甘美な青春の肉片を解剖する狂熱の儀式へと踏み出さなければならない。ミリオンフィルムという、過激さと雑多なエネルギーが渦巻くピンク映画の魔窟から放たれた本作は、単なる「エロビデオの棚に追いやられた旧作」という枠組みを軽々と飛び越えていく。ジャケットに躍る「木築沙絵子 衝撃のデビュー作」という誇大広告めいた太字の躍動感を、我々は果たして笑い飛ばすことができるだろうか。いや、出来ない。

なぜなら画面の向こうで裸体を晒し、汗を飛び散らせ、身を捩らせる木築沙絵子の存在感は、80年代という時代の空気をそのまま過剰に吸い込んで膨れ上がった一卵性のミューズそのものだからだ。高原秀和という名前を聞いて、現代の映画ファンは何を思い浮かべるだろうか。あるいは何も浮かばないかもしれない。だが、この男が歩んできた映像の軌跡は、日本のサブカルチャー裏面史そのものと言っても過言ではない。

91年のフジテレビ映画『新・同棲時代』でメジャーの舞台に爪痕を残し、さらには光GENJIが東京ディズニーランドで暴れ回る伝説的ビデオの監督を務め、さらには蒼井そらの衝撃的なAVデビュー作で指揮を執り、さらにはニコニコ動画などで語り継がれる『(走)改造自動車教習所』でカルト的な歓喜を巻き起こした。そして何より、過激なロックンロール・精神とフェティシズムが融合した奇跡のロマンティック・ミュージカルAV『大制服ハーレム2 君矢摩子』という狂気の傑作を世に放った男なのだ。

そのすべての源流、すべての遺伝子、すべての過剰な作家性の原風景が、この1985年の『セクシーアップ 桃色乳首』にこれでもかとばかりに濃縮され、充填され、いまにも破裂せんばかりに凝縮されているのである。作家のすべてはデビュー作に宿る——この映画批評界の使い古された格言が、これほどまでに生々しく、グロテスクなほど正しく証明されている例を、私は他に知らない。物語の骨組みは、驚くほど可憐で、哀しく、そしてどこまでも刹那的だ。 婚約者という未来の約束を抱えながらもどこか空虚を抱えるヒロイン・木築沙絵子。

公務員風の眼鏡をかけ、妻子を持ちながらも日常の退屈に身を焦がす中年男・隈本吉成。 そして、都会の夜の片隅でグラスを傾けるイケメン独り身バーテンダー・関根信二。 この属性も、年齢も、背負った日常の重みも異なる奇妙な三人が出会い、奇跡的に噛み合ってしまった瞬間から、狂おしくも美しい享楽的な同棲生活が幕を開ける。彼らが織りなす関係性は、単なる性愛の過剰供給ではない。ひょんなきっかけで出会った若者(と若さを諦めきれない中年)が、互いの孤独の輪郭を確かめ合い、束の間の「分かり合えた」という錯覚に浸る、あまりにも眩しい青春の蜃気楼なのだ。

しかし、その輝きは長くは続かない。ポップバンドが「音楽性の違い」という使い古された、しかし絶対的な理由で解散していくように、彼らの奇妙な生活もまた、それぞれの現実という重力によって引き裂かれていく。楽しく、バカバカしく、快楽に満ち溢れた日々の裏側に、常にうっすらと漂うビターな予感。その予感は、映画の序盤、彼らが動物園で記念写真を撮影するあの忘れがたいシークエンスにおいて、すでに決定的な抒情性として画面に刻み込まれている。カメラに向かって無邪気に微笑む彼らの姿。だが、レンズを通して切り取られたその瞬間は、すでに「過ぎ去った過去」としての影を帯びている。

最後の別れを告げるあのあまりにも切ないラストシーンへと滑らかに繋がっていく伏線は、23歳の青年の作風とは思えないほど熟成された、悲劇的映画センスの結実と言えよう。そして、この映画が記録した最大の文化的遺産の一つが、1985年当時の東京の空気感、都市の皮膚感そのものである。シティポップなどという言葉がお洒落な流行語として消費される現代の生ぬるいノスタルジーとは一線を画す、生々しく雑多で、過剰で、どこかギラギラとした熱狂に満ちた80年代の街並み。

現在のLABI新宿東口館付近の雑多な熱気、新宿アルタ前に群がる無名の若者たちの熱狂、そして安倍晋三の邸宅が存在する渋谷区富ヶ谷のどこか閑静でありながら不穏な影を落とす佇まい。それらの風景が、当時のスクリーンの隅々にまで過剰なほどの解像度で焼き付けられている。映像美という観点においても、高原秀和の才能はすでに爆発していた。鈴木清順が作り上げた「清順美学」の極彩色の歌舞伎的カオス、そして渡辺元嗣らが追求したポルノグラフィにおける叙情的な光と影。それらを貪欲に吸収し、80年代特有のメルヘンチックでニューウェーブな感性で煮詰めた映像美学。

パステルカラーとネオンの原色が交錯する画面は、まさに「このデビュー作に自分の知っているすべての映画技法と愛を詰め込んでやる」という若い血潮の暴走そのものである。もちろん、ピンク映画としての至高の快楽、欲望の充足も一切の妥協がない。主演の木築沙絵子が魅せる官能の数々——情熱的なセックスシーン、眩暈を覚えるほど濃密なレズビアン・シーン、そして劇中劇としてのAV撮影シーンに至るまで、画面から溢れ出る濡れた肉体の躍動は圧迫感すら覚える。

かつて深夜番組『海賊チャンネル』などのあやしげな映像文化に毒され、夜な夜なテレビ画面にかじりついていた昭和の男子たちにとって、この映像はまさに聖典であり、永遠のトラウマ的快楽として記憶に刻まれているはずだ。さらに見逃せないのは、脇を固めるキャスト陣が魅せる狂おしいほどの情念だ。イケメンバーテンダー役の関根信二と、石田えりを彷彿とさせる豊満で妖艶なボディを誇る熟女・しのざきさとみ(またの名を三沢亜也)が繰り広げる、たったワンシーンのベッドシーン。

全身にオイルを塗りたくり、汗と脂と体液が混ざり合うスックセ(セックス)シーンの激しさは、間違いなく日本ポルノ史に刻まれるべき「爆エロ」の頂点である。肉体が摩擦し、擦れ合う音すら聞こえてきそうなその熱量は、画面越しに観る者の皮膚を焼き尽くすほどのパワーを秘めている。(私事で大変恐縮だが、かつて某所で彼女からサインをいただいた際のあの匂い立つような色香は、一生忘れることができない。チョメチョメに至ることは叶わなかったものの、あの肉体の存在感を間近で感じた記憶は、私にとって永遠の宝物である)。

さらに、プロレス狂としても知られる高原監督の個人的偏愛が爆発したレスリング・シーンの存在も忘れてはならない。なぜ作中で登場人物が、まるで斉藤由貴の不倫相手として世間を騒がせたあの変態仮面スタイル——顔面にパンティを被り、半裸でリングに上がるような滑稽かつ異常な姿でレスリングに興じているのか。その合理的理由は作中において一切説明されない。しかし、その理屈を超えた異常なフェティシズムの炸裂こそが高原秀和であり、ミリオンフィルムという狂気の時代が許容した奇跡の表現空間なのだ。だが、この愛すべき傑作には、映画史の陰に埋もれた悲劇的な「欠損」が存在する。

現在、我々が目にすることができる本作のビデオ映像は、左右が容赦なくトリミングされた状態でパッケージ化されているのだ。当の高原秀和監督自身も、当時のオリジナルフィルムの所在が不明となってしまっていることを公表しており、この不完全なVHSビデオでしか自身のデビュー作を鑑賞することができないという絶望的な現実に直面している。監督自身、かつて自身のウェブサイトやSNS上で、このように痛切な悲鳴をあげていた。

「デビュー作『セクシーアップ 桃色乳首』はよくわからないメーカーでビデオ化されたVHSを持っているが、上下に黒を入れてのビスタサイズではなくて、当時のテレビの4:3に合わせて、左右の画面が欠けている状態。ああ、欠けた両端が見たい。」なんという切なさだろうか。23歳の若き才能が、カメラの画角(フレーム)の隅々にまでこだわり抜き、色彩と配置を計算し尽くして切り取った「80年代東京の真実」の左右両端が、バブル期の安易なビデオソフト化の暴力によって永遠に刈り取られてしまったのだ。我々が観ているのは、過剰な天才の思考の「中央部分」に過ぎない。

カットされた左右の画面には、一体どれほどの美しい光が、どれほどの路地裏の熱気が、そしてどれほど艶やかな肉体のディテールが収められていたのだろうか。その失われた両端に思いを馳せるとき、我々の胸は怪しいノスタルジーと不全感で激しく焦がされるのである。そして、この不完全な作品の核心で、歪んだ都市の哀愁を力強く歌い上げるのが、劇中の中盤とエンディングで流れる奇跡の主題歌「黒く塗りつぶせ」である。 主演の木築沙絵子自身が掠れた声で、しかし圧倒的な主張を込めて歌い上げるこの楽曲。作詞作曲を手掛けたのは「きたはらりえ」という人物である。

現代の若い世代ならAKB48の北原里英を連想するかもしれないが、断じて違う。これは、日活ロマンポルノの爛熟期を支えた伝説的女優・北原理絵その人に他ならない(あるいはその名義を借りたサブカルチャーの幽霊か)。当然のことながら、この楽曲は当時単曲としてのEP盤(シングルレコード)化も、その後のCD化も一切されていない。映画という泡沫の暗闇の中でだけ鳴り響き、消えていくはずだった幻の歌。だが、この曲の持つ圧倒的なパンク精神、80年代初期のニューウェーブ・歌謡曲が持っていた鬱屈としたエネルギーは、一度聴いたら脳裏から離れない呪烈な魅力を放っている。

私はこの歌を、この映画のスピリットそのものとして、愛してやまない。だからこそ、ここにその歌詞のすべてを書き記し、永遠の記憶としてこの論考の中に刻みつけなければならない。せっかくだから、オレはこの歌詞を完全採録するぜ!

邪魔だね指図はいらないよ私はロボットじゃないピエロよ あんたの負けなのさ私に守るものはない長いため息を遠くすり抜けていつでもどこでも わたし 自由でいたいoH フラストレーションoh フラストレーション街の太陽をみんな黒く 黒く塗りつぶせ悪いねいちいち睨むなよ私は見世物じゃないピエロよ あんたは負けなのさ私にかなうものはない無駄な見栄をいますべて投げ捨てていつでも どこでもいつでもどこでも自由でいたいoH フラストレーションoh フラストレーション街の太陽をみんな黒く 黒く塗りつぶせこの歌詞を熟読してほしい。

「私はロボットじゃない」「私に守るものはない」「街の太陽をみんな黒く黒く塗りつぶせ」——ここには、1985年という消費社会の絶頂へ向かってひた走る日本に対する、若者たちの決定的なアンチテーゼと、行き場のない不満(フラストレーション)が爆発している。浮かれた街の眩しすぎる太陽(バブルの虚飾)を、自らの手で黒く塗りつぶし、闇の中でしか得られない真の自由を求める叫び。

それはまさに、ミリオンフィルムの暗がりで過激なエロスとロマンティシズムを追求した高原秀和の監督声明であり、80年代ピンク映画という表現ジャンルが秘めていた真のパンク・ロック的アナーキズムそのものではないか。

1985年の夏、弱冠23歳の青年がカメラを構え、新宿の街角で、富ヶ谷の路地で、そして狭いアパートのベッドの上で切り取った『セクシーアップ 桃色乳首』。画面の両端が欠けようとも、フィルムが劣化しようとも、そこに込められた情熱の火種は四十年近くの時を超えてなお、我々の魂を狂おしく焼き続ける。この失われた傑作を単なる昔のポルノとして片付ける者に、映画を語る資格はない。我々は今こそ、欠けた画面の向こう側にあったはずの無限の広がりと、黒く塗りつぶされた太陽の眩しさを、妄想と情熱をもって語り継がなければならないのだ。

この一編の映画が存在したという奇跡、そして高原秀和という天才がここから産み落とされたという歴史的事実を、我々は永遠に熱狂とともに祝福し続けるだろう。虚無と退屈を描くピンク映画「欲情させられた女」評昭和という時代の終わり、バブル経済の熱狂が日本全体を覆い尽くそうとしていた1986年。世界が物質的な豊かさと、どこまでも右肩上がりに続いていくと錯覚された狂乱のただ中にあったとき、日本の映画界の、それも最も過激で、最も自由で、最も不穏な表現が許されていた「ピンク映画」という磁場において、一つの恐るべき怪作が産み落とされた。

それが、高原秀和監督による『欲情させられた女』である。本作は、単なるエロティシズムの消費物ではない。むしろ、ピンク映画という枠組みをこれ以上ないほど冷徹に、そしてあまりにも優美にハックしながら、現代人が今なお抱え続け、21世紀の今こそより深刻化している「生の空虚」「実存の退屈」「徹底的な母性の監禁」を完璧に予言してみせた、映画史に毅然と刻まれるべき大傑作である。断言しよう。これは最高の作品である。それ以外のいかなる言葉も、この映画の持つ狂気的な美しさと、時代を切り裂く刃のような鋭さを形容するには生ぬるい。これは、最高の作品である。

1986年当時、世間はネオンサインに彩られ、若者たちはディスコや高級車、ブランド品といった「記号としての幸福」を血眼になって追いかけていた。しかし、その華やかな狂騒の裏側で、本作が提示したのは、あまりにも静かで、あまりにも冷ややかな「虚無の深淵」であった。驚くべきことに、当時まだ20代前半の若き映画学徒のようであった高原秀和は、バブルという巨大なシステムが完成へと向かうその瞬間に、すでにそのシステムの「終わり」と、システムに完全に去勢された人間の成れの果てを見抜いていたのである。

本作が放つ不気味な洗練と、すべてを見通したかのような達観したタッチは、当時の観客以上に、物質的飽和の果てに精神的飢餓とゲーム的な現実に囚われている「現代の私たち」にこそ、より深く、より致命的な一撃となって突き刺さる。徹底的なシステムとしての「マザコン」と去勢されたエリートの誕生物語の主人公、たかし(タカシ)は、いわば「戦後日本の幸福の総体」として造形されたような男だ。彼は小さい頃から欲しいものは何でも手に入り、学校の成績も優秀で、大学にもストレートで入学し、卒業後は誰もが羨む一流企業へと滑り込んだ。

挫折を知らない、絵に描いたようなエリート街道の体現者である。しかし、その輝かしい外面の裏側で、彼の精神はひび割れ、完全に空洞化している。タカシの正体は、過保護な母親(タカシママ)の腕の中から一歩も外に出ることができない、致命的なまでに純粋培養された「マザコン男」である。

今でこそ「子供部屋おじさん」という言葉が定着し、親の庇護下から抜け出せない大人の存在は珍しくもなくなったが、バブルの熱狂に沸く1986年という時点で、この「実家に引きこもり、精神的な幼児性のまま社会のシステムに組み込まれている男」を主人公に据えた高原監督の切り口は、驚異的なまでの先見性と言わざるを得ない。タカシの無自覚なマザコンぶりは、観る者に強烈な居心地の悪さと、奇妙なリアリティを突きつける。その歪んだ母子関係を最も象徴するのが、タカシの「性欲」の処理方法である。彼は、自らの性欲すらも、母親の手を借り、母親の管理下でしか満たすことができない。

タカシが実家に巨乳のデリヘル嬢(娼婦)を呼び出すと、母親は嫌悪感を示すどころか、ごく自然に、まるで息子の家庭教師を迎えるかのように玄関へと出向くのだ。そこから展開されるプレイは、もはや性愛の交歓ではなく、母親が同席する「三者面談」の様相を呈してくる。母親は息子のプレイを直前まで見張り、あろうことか「普通のセックスばかりじゃつまらない、バリエーションに気を遣ってんだぞこれでも」と、息子に対してアドバイスを授ける。

母親が手料理であるハンバーグやフレンチトーストを「世界一美味い」と言わせ、息子を胃袋から精神まで完全に飼い慣らしているように、タカシの性欲もまた、母親という巨大な母性の宇宙から逸脱することを許されない。ここで描かれる母親の姿は、森田芳光監督の傑作『家族ゲーム』における由紀さおりが演じた母親の、さらなる極端な進化形であり、より悪質な変奏曲である。

『家族ゲーム』が昭和後期の核家族の崩壊とコミュニケーションの不全をコミカルに、かつ冷徹に暴いてみせたとするならば、高原秀和の『欲情させられた女』は、その崩壊した家族の先にある「母子密着のユートピアという名の地獄」を、より生々しく、官能的なまでにグロテスクに描き出している。普通のプレイでは物足りなくなったタカシと母親は、ついには女王様のマスクを母子で身につけ、呼び出した娼婦に対して浣腸を行い、スカトロジーの世界へと手を染めていく。

この排泄物への回帰は、タカシが精神的に大人になることを完全に拒絶し、母親と一体であった「幼児期(肛門期)」へと退行していくプロセスの完璧な視覚化である。母親は息子のすべてを受け入れ、息子は母親のすべてに依存する。そこには他者が介在する余地はない。タカシは一流企業の会社員として働き、同僚や上司との関係も悪くないと語るが、それは彼にとって単なる「記号としてのロールプレイング」に過ぎず、彼の実存は実家の子供部屋と、母親の歪んだ愛の中に完全に幽閉されているのだ。

テレクラ、屋上のアヴァンギャルド、そして「退屈」という名の宿痾しかし、どんなに完璧に管理されたユートピアであっても、人間を蝕む「ある病」から逃れることはできない。それこそが「退屈」という名の虚無である。タカシは、ある日、母親に黙ってテレクラ(テレフォンクラブ)を通じて、見知らぬ若い女性、マユミと密会する。テレクラというシステム自体が、当時の最先端のコミュニケーションツールであり、顔の見えない声だけの繋がりを求める、都市の孤独の象徴であった。タカシとマユミの出会いは、決して情熱的な恋の始まりではない。

それは、お互いの中に広がる「同じ虚無感と退屈」を鏡のように共有する行為であった。マユミというヒロインは、夢がなく、やりたいこともなく、自分が生きているという実感すら持てない、徹底的な虚無の申し子として登場する。二人の間で交わされる会話は、まるで不条理演劇のように、生の意味を剥ぎ取られた言葉が冷たく響き渡る。「なにをしたいのかな、なんでもいいよ、セックス?」 「いきたいところもない。生まれてからずっと退屈だった気がする。何がしたいのかわからないし、どうして生きているのかもわからない」 「変わってるね。今は?」 「いまはそうでもないけど、いずれ飽きるわ。

癖になってるんだ、退屈が」このマユミのセリフは、まるで後年の漫画『HUNTER×HUNTER』に登場するキルア=ゾルディックが抱えていた、あまりにも早熟で、それゆえに世界のすべてに飽き果ててしまったかのような冷徹な暗殺者の精神性すら彷彿とさせる。彼女は世界に対して何も期待しておらず、何によっても満たされることがない。「癖になってるんだ、退屈が」という言葉は、バブルの物質的豊かさが、人間の「欲望の回路」を完全に焼き切ってしまったことを示している。何でも手に入る世界とは、何も欲することができない世界と同義なのだ。

高原監督は、この二人の「遊ぶ相手が欲しいだけ」という、生温い地獄のようなランデブーを、信じられないほどアヴァンギャルドでファンシーな演出で装飾していく。タカシは会社に仮病を使って休み、マユミとビルの屋上で待ち合わせをする。この「ビルの屋上」というロケーションが素晴らしい。空に最も近く、しかし地面からは隔絶された、都市の空中庭園であり、現世の境界線。二人は、そのビルの屋上で、あろうことかボーリングに興じる。現実のボーリング場ではなく、無機質なコンクリートの上で、ただピンを倒し、球を転がす。

あるいは、同じビルの屋上で、プラスチックのコントローラーを握りしめ、ラジコンカーを走らせる。遊園地に行っても消えない退屈を、彼らはその非現実的で、記号的な「遊び」によって埋めようとする。ここでの演出は、かつて鈴木清順が確立した、原色と奇抜な構図によって現実を異化する「清順美学」にも通じる、キラキラとしたファンシーな輝きを放っている。しかし、その輝きは、決して幸福なものではない。それは、死後硬直を起こした遺体に施される、あまりにも美しい死に化粧のようなものである。

おもちゃのような演出、非現実的な色彩、それらが織りなすポップな映像美は、逆に彼らの内面にある底なしの孤独と、生きている実感の希薄さを、これ以上ないほど残酷に際立たせるのだ。これこそが高原秀和という作家が持つ、映画的な魔術である。資本主義の暴走と、現実を凌駕するファミコンの神話映画の後半、タカシとマユミの関係は進展し、マユミはタカシの実家へと入り込み、タカシ、母親、マユミという、奇妙で不気味な3人の共同生活がスタートする。ここでタカシが異常なまでに没頭していくのが、「ファミコン(ファミリーコンピュータ)」である。

1983年に発売され、1986年当時には社会現象の極みにあったファミコンを、高原監督は単なる「当時の流行風俗」としてではなく、人間の実存を飲み込む「シミュラークル(偽物の現実)」として映画の中心に据えた。タカシはゲーム依存に陥っていく。現実の世界でのエリート街道、会社での人間関係、それらすべては彼にとって、ファミコンのドット絵の画面よりも価値のない、退屈なノイズでしかなくなっていく。ゲームの世界では、ルールは明快であり、リセットが可能で、努力すれば確実にスコアが上がる。母親によって徹底的に去勢され、自らの意志で現実を切り開く力を奪われたタカシにとって、ファミコンの画面こそが、唯一自分が「主導権を握れる」世界のすべてだったのだ。ゲームが現実を凌駕し、現実そのものがゲームの影へと退行していくこの描写は、インターネットやSNS、バーチャルリアリティに依存し、現実の生の手触りを失って久しい現代の私たちの姿そのものではないか。

1986年の時点で、ファミコンという8ビットの電子玩具の中に、人類の精神の未来の監獄を見出していた高原監督の洞察力には、ただただ戦慄するほかない。さらに、この映画の中で最も批評的であり、かつ狂気に満ちたシーンが訪れる。タカシは、お金がないわけではない。エリート会社員であり、実家も裕福で、ゲームソフトなどいくらでも買えるはずなのだ。しかし彼は、わざわざ店舗に出向き、ゲームソフトを「万引き」するという暴挙に出る。店員に見つかり、必死の形相で街中を追いかけ回されるタカシ。なんとかその追跡を回避し、逃げ切ることに成功する。なぜ、彼は万引きをしたのか?

それは、彼が生きる意味を、強烈な「リスク」と「罪悪感」によってしか呼び覚ますことができなかったからだ。欲しいものは何でも手に入ってきた人生において、「手に入らないかもしれない恐怖」や「捕まるかもしれないスリル」だけが、彼の麻痺した神経に、一時的な「生きている実感」という劇薬を注入してくれたのだ。タカシは命がけで盗み出したそのゲームソフトを、ヒロインであるマユミに与える。しかし、マユミの反応は冷淡そのものである。彼女はそのゲームにもすぐに飽き、次から次に新しいソフトを欲しがる。その姿を見て、タカシ、あるいは映画そのものが冷ややかに喝破する。

「これが資本主義だ!」このセリフこそ、本作の核心を突く弾丸である。バブル経済とは、終わりのない消費の無限ループである。新しいものを買い、瞬時にそれに飽き、さらに新しい刺激を求めて消費を繰り返す。欲望は決して満たされるためにあるのではなく、次の消費へと人間を駆り立てるために、常に「飢餓状態」であることを要請される。マユミがゲームに飽き続けるプロセスは、資本主義という巨大な怪物の胃袋の中で、ただただ消化されていく若者たちの実相そのものなのだ。

タカシが万引きという命がけのゲームで手に入れたものですら、資本主義の無限の消費スピードの前には、一瞬でゴミクズへと変えられてしまう。この圧倒的な厭世観と、システムに対する絶望が、映画全体を重く、暗く支配している。

1986年の影:遠藤ミチロウ、アナーキー、そして岡田有希子の不在映画のボルテージが最高潮に達する瞬間、当時のファミコンのチープなゲーム画面にかぶさるようにして、爆音のBGMが鳴り響く。それはおそらく、遠藤ミチロウ(ザ・スターリン)の狂気的な咆哮か、あるいはアナーキー(Anarchy)の、体制に対する怒りと生への絶望をぶちまけるような、荒々しくがなるパンクロックの歌声である。この音楽のチョイスが、本作の持つ「ピンク映画」としてのエロティシズムを完全にパージし、純然たるアヴァンギャルド・パンク・シネマへと昇華させている。ファミコンという無機質でデジタルな電子音の世界と、人間の生々しい血と泥にまみれたパンクロックの絶叫。この強烈なコラージュは、システムによって綺麗に管理された世界(ファミコン)の底で、今にも破裂しそうにのたうち回っている、若者たちの「言語化できない叫び」そのものである。そして、私たちはこの『欲情させられた女』が制作・公開された「1986年」という年が、日本の若者文化にとってどのような意味を持っていたかを忘れてはならない。

1986年4月8日、当代きってのトップアイドルであった岡田有希子が、所属事務所のビルの屋上から飛び降り自殺を遂げた。この事件は日本社会に甚大な衝撃を与え、後を追うように多くの若者たちが命を絶つ「ユッコ・シンドローム」と呼ばれる現象を引き起こした。本作において、タカシが会社を休み、マユミと待ち合わせをし、そして最終的に衝動的な行動へと駆り立てられる場所が、ことごとく「ビルの屋上」であることは、決して偶然ではないだろう。万引きの追跡をなんとか回避し、シーンが変わると、タカシは再びあの無機質なビルの屋上に立っている。

彼はそこで、いつものようにラジコンを操作している。しかし、その手元からラジコンのコントローラーが離れた瞬間、彼は何の前触れもなく、ただ滑り落ちるように、衝動的に身を投げるのだ。このタカシの投身自殺のシーンには、劇的なドラマも、お涙頂戴の演出も一切ない。まるでゲームのキャラクターが、操作を誤って画面の端から消えていくかのように、あまりにもあっけなく、淡々と描かれる。ここには、岡田有希子の自殺が当時の若者たちに植え付けた、「生きる意味と理由の希薄さ」、そして世界に対する強烈な「厭世観」が、色濃く、不気味に影を落としている。なぜ生きているのかわからない。

死ぬ理由もないが、生き続ける理由もまた、どこを探しても見当たらない。物質的にはこれ以上ないほど満たされているはずなのに、足元には常に底なしの虚無が広がっている。高原監督は、タカシという男の死を通じて、バブル前夜の日本が抱えていた「実存の超薄型化」を、完璧にフィルムに定着させてみせたのだ。高原秀和の作家性:虚無と孤独の一貫した変遷本作『欲情させられた女』で見せた、若者から中年(ミドルエイジクライシス)の持つ虚無感、疎外感、孤独、そして退屈というテーマは、高原秀和監督のキャリアにおいて、決して一過性の思いつきではない。

それどころか、彼の全キャリアを貫く、最も重要で、最も誠実な通奏低音(バッソ・コンティヌオ)である。彼のデビュー作である『セクシーアップ桃色乳首』という、タイトルこそ極めて商業的なピンク映画の定型を踏みながらも、その内部で描かれていたのは、都市に生きる人間の埋めようのない孤独であった。そしてそのテーマは、後年、蒼井そら(本名:純子)を主演に迎え、伝説的な傑作となった『制服美少女 先生あたしを抱いて』に至るまで、驚くほど一貫している。

高原監督は、一見するとエロティックな刺激を求める観客のための「ピンク映画」というジャンルの中で、常に「身体は交わっているのに、魂は決定的に孤立している」という人間の根源的な悲劇を描き続けてきた。彼の映画に登場するキャラクターたちは、みな激しく求め合い、肌を重ね、時には異常な性愛に耽溺するが、その表情は一様に冷ややかであり、どこか遠くを見つめている。彼らにとって、エロスとは快楽の追求ではなく、自らが生きていることを確認するための「自傷行為」に近く、あるいは世界の退屈から一瞬だけ逃避するための「麻薬」なのだ。

『欲情させられた女』は、その高原秀和の作家性が、最も純粋な形で、かつバブルという時代の狂気と奇跡的なマリアージュを起こした、最高到達点の一つなのである。弱冠20代前半の監督が、これほどまでに人間の孤独を達観し、冷徹な視線で切り取ってみせたという事実は、日本の映画史における奇跡と言うほかない。救いのない結末と、21世紀に響き渡る不気味な余韻そして、この映画を単なる傑作から「永遠の神話」へと押し上げているのが、あまりにも救いがなく、あまりにも不気味な、あの伝説的なエンディングである。タカシがビルの屋上から身を投げ、この世界から消退した後。

画面に残されたのは、遺された二人の女――タカシの母親と、タカシの子供をその身に宿したマユミである。タカシが死んだという事実を、彼女たちは未だ知らない。あるいは、知ろうともしていないのかもしれない。二人は、タカシのいなくなった子供部屋で、タカシが遺したファミコンゲームに、狂ったように熱中している。ドット絵の画面から発せられるチープな電子音が部屋に響き渡る中、マユミがふと、呟くように言う。「子どもができたら、退屈じゃなくなる?」その問いに対して、タカシの母親は、ゲームの画面から目を離すことなく、いつもと変わらない調子で返すのだ。

「そうね、退屈だなんて言ってられなくなるわね。……タカシ、遅いわね」マユミはさらに、虚空を見つめながら言う。「子供って、面白いかな?」このやり取りの恐ろしさに、観る者は総毛立つ。タカシという、自らの息子であり、夫(あるいは恋人)であった存在が消滅しているにもかかわらず、彼女たちの世界は何一つ変わっていない。彼女たちは、タカシという「人間」を愛していたのではない。タカシという存在を介して維持されていた「退屈をしのぐためのシステム」の中で生き、今はその役割が、ファミコンのゲームと、新しく生まれてくるであろう「次の子供」へと移行しただけに過ぎないのだ。

母親の「タカシ、遅いわね」というセリフは、タカシの死を認知していないがゆえの言葉であるが、同時に、彼がこの世からいなくなろうとも、彼女たちの日常(=退屈なゲームの継続)は何の支障もなく回り続けるという、究極の排除の論理を示している。生まれてくる子供もまた、マユミや母親にとっての「新しいおもちゃ」「退屈を紛らわせるための新しいソフト」として消費され、やがてはタカシと同じように、過保護に去勢され、虚無の中に放り出されていくのだろう。

子供は大人のオモチャであり、その結果として、子供の不安、混乱、不幸、そして未成熟な大人、愛情の歪曲が、無限の輪廻(ループ)のように繰り返されていく。この結末が残す不気味な余韻は、映画が終わった後も、私たちの日常を侵食し続ける。高原秀和は、バブルの絶頂期に、すでに「人間がシステムと記号に完全に敗北し、感情すらもデジタルに処理される未来」を完璧に描き切っていた。本作は、1986年の観客にとっては、あまりにも前衛的で、あまりにも悪趣味な一夏の夜の夢に過ぎなかったかもしれない。

しかし、人間関係が希薄化し、誰もが画面の中のバーチャルな現実に依存し、実存的な退屈を埋めるために終わりのない消費を続ける現代の観客にとって、この映画は鏡そのものである。『欲情させられた女』は、時代を超えて今なお、いや、今だからこそ、その真の牙を剥いて私たちに襲いかかる。これほどまでに美しく、これほどまでに冷酷で、これほどまでに予言的な映画が、かつて存在しただろうか。ジャンルの枠を完全に超越した、映画表現の極北。これこそが、私たちがひれ伏すべき「最高の作品」である。その爆裂する虚無のエネルギーを、私たちはただ、魂を震わせて受け止めるほかないのだ。

334 :Captain of the Hip:2006/09/12(火) 17:15:44 ID:0gK4IuPz0じめじめと暗く腐った憂鬱な尻穴を俺は憎んでばかりいた首輪されても四つんばいしたまんまただ棹をしゃぶって生きてきたえげつなさを引っかけられヤクザ者の棒が穴を突き刺したとき我慢ならねえたったひとつの俺の純愛が激烈な情熱に変わるおしゃぶりしたどこかの舌足らずな他人の愛撫など叩きつぶしてやれ眉をひそめられ、汚い穴だなと罵られても、ノンケだねと言われるよりよっぽどましだガタガタ理屈などあとからついて来やがれ!

ホモは自由という名のハッテン場さ「逆指名してプロ入りしたいねえ」と誰もがあのころ噛みしめていたくせに!!Captain of the Hip アッー!明日からお前が棹を取れ!Captain of the Hip アッー!生きる意味を探しに行こうアッー!衆道 チンポは右曲がり アッー!衆道 アナルがディルドに沈む前にアッー!衆道 確かな人生を アッー!衆道 俺たちの棹を出すこんな理不尽な世の中じゃ真実はいつもねじ曲げられてきただけど同性愛がバカをみてきた時代はもうすでに遠い昔の戯言さだから差別も拾え! 苦しみも悲しみも拾え!

ついでに波多野大坊拾ってしまえ!根こそぎ拾ったらあの豊満な大臀部へすべてをお前の肉坊で破り捨てろ!!ああ この潔さよ 明日からお前がCaptain of the Hipいいか! 結合部から目を離すなお前がしっかり腰を振れ!!黒い棒高く上げ立ちバック腰のうねりで突き進んで行け!たとえ背後を打ち抜かれても意味ある人生を求めて今 腰を振れ!Captain of the Hip Oh!こんな萎えたチンポだからCaptain of the Hip Oh!噛み付く力が欲しいアッー!衆道 チンポは右曲がり アッー!衆道 アナルがディルドに沈む前にアッー!

衆道 確かな人生を アッー!衆道 多田野はイって射精すればいい335 :Captain of the Hip:2006/09/12(火) 17:33:44 ID:0gK4IuPz0いつだって人の栄光はたった一夜にしてすべてがひっくり返るものだたとえ週刊誌のスッパ抜き晒されても多田野は生きる為に生まれてきた上でもなく下でもなく右でもなく左でもなくただただひたすら前へ突き進め馬鹿馬鹿しい幻に惑わされる事なくただただ前へ突き進めばいいあらゆる女を片っぱしから蹴散らし 高鳴る鼓動で血液が噴き出してきた多田野らの魂がヤクザの尻を襲うとき メジャーよ!

お前は多田野らに明日を約束しろ!そうさ 明日から多田野がCaptain of the Hip 多田野には立ち向かうアナルがある遥かなる水平線の向こう 多田野らは今4P入り乱れる嵐の真っただなかCaptain of the Hip アッー! 谷岡などガリガリ掘り散らかしてやれCaptain of the Hip アッー!吠える腰の力を生命に変えろアッー!衆道 チンポは右曲がり アッー!衆道 ディルドがアナルに沈む前にアッー!衆道 確かな人生を アッー!衆道 俺たちが腰を振るアッー!衆道 車はあずま寿司へ アッー!衆道 お前が棹を取れ!アッー!

衆道 こんな萎えたチンポに アッー!衆道 舐め付く奴が欲しいもっと穴で話をしてくれ!もっと本当の気をやってくれ!怖がらず ためらわず 萎えず ひるまず男を信じて男を愛して決して逃げるな 逃げるな 多田野がしゃぶれ多田野がしゃぶれ 多田野が棹を取れ死んでるのか イってないのか そんな腐った瞳で谷岡を見るのはやめろイってくれ! イってくれ!イってくれ! おまえのアナルはイク為に掘られている衆道だ! 衆道だ!たかだかホモも多田野も衆道だ決して奢るな 決して萎えるな決して自惚れるな 一突きずつ一突きずつ確かな腰を多田野がどうするかだ!多田野がどう動くかだ!

多田野がどうするかだ!多田野がどう動くかだ!!決めるのは誰だ?やるのは誰だ? 行くのは誰だ? そう 多田野だ!多田野が棹を取れ多田野がイけ! 多田野が掘れ!多田野がイくからアッー!になる336 :Captain of the Hip:2006/09/12(火) 17:42:33 ID:0gK4IuPz0穴へ 穴へ 穴へ 穴へただひたすら穴へ突き進めばいいわかるか! わかるか!多田野が決めろ 多田野がしっかり棹を取れ谷岡をなめるな!波多野をなめるな!

もっと深くもっと深く もっと深く愛してやれチンチンくれと言葉を放つ前に信じきれる自分を愛してやれ感じてくれ! 感じてくれ! 幸せはなるものじゃなく感じるものだ早くイけ! 早くイけ!立ちバック腰のうねりに突き進んで行け今すぐ 今すぐ 今すぐ 今すぐ黒いマラを高く上げ多田野は多田野の弱さを叩きつぶせ 先ずは自分に打ち勝て 打ち勝て! 打ち勝て!

イけ イけ イけ イけ多田野の命は生きる為に流れているイけ イけ イけ イけ多田野の命は生きる為に流れているイッて イッて イッて イッてただただイッて射精すればいいイッて イッて イッて イッて イッて イッて イきまくれ!!イッて イッて イッて イッて イッて多田野の命は生きる為に流れている多田野が決めろ 多田野が決めろ 多田野が決めろ多田野が棹を取れ!多田野が決めろ 多田野が決めろ 多田野が決めろ多田野が棹を取れ!

多田野が決めろ 多田野が決めろ そうさ今から多田野がCaptain of the Hip多田野が決めろ 多田野が決めろ そうさ今から多田野がCaptain of the Hip(ここまでで9分。ここから長アッー!渕氏、アッー!衆道を数分に渡り叫び続ける)(バックの尻振り隊もひたすらアッー!衆道を繰り返す)

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