特攻任侠自衛隊 (1977) Temujin Hijikata
在屠殺的廢墟上,我們重建良知。
昭和カルト自主映画の極北『特攻任侠自衛隊』(1977)解体新書──筋トレ、過激派、8ミリフィルムが交差する奇跡と妄執の超大作はじめに:歴史の闇に咲いた狂気の徒花昭和50年代、日本映画界が大手スタジオの衰退とニューウェーブの台頭という地殻変動に見舞われていた時代。その暗黒の片隅で、日本映画史のあらゆる文脈を粉砕する異形の一作が誕生した。それが自主映画制作グループ「騒動社」による無謀にして壮大な超大作『特攻任侠自衛隊』(1977年作品)である。「アメリカ製超大作戦争映画か、東映実録ヤクザ映画か、はたまた岡本喜八の『独立愚連隊』か!?
」当時の宣伝文句に謳われたその過剰な文句は、決して大言壮語ではない。いや、現物はその謳い文句すら遥かに置き去りにする狂気と熱量に満ちあふれていた。16ミリ・8ミリカメラを片手に、筋肉を誇示する男たちが山林を駆け巡り、偽の軍装と筋トレで鍛え上げた肉体をぶつけ合う──。
本稿では、この伝説の作品『特攻任侠自衛隊』について、現存する貴重な証言資料、当時の時代背景、そして制作の中心人物であった土方鉄人・飯島洋一という二人の天才(あるいは変人)の足跡を辿りつつ、映画というメディアが持つ原始的な力と、狂気的な熱量がいかにして結実したのかを、1万字を越える濃密な熱量で徹底的に解剖・論考していく。
第1章:昭和50年代初頭の混沌と「騒動社」誕生秘話1.1 時代精神としての「安保の残り香」とキャンパスの熱気1970年代初頭、日本全国の大学キャンパスは全学連や東全協といった学生運動の嵐が吹き荒れた直後であり、政治的狂熱と喪失感が同居する独特のモラトリアム空気が漂っていた。和光大学も例外ではない。
1970年4月、和光大学のキャンパスで二人の若者が運命的な出会いを果たす。土方鉄人と飯島洋一である。当時、二人はまだ19歳ないし20歳の多感な青春の真っ只中にいた。「最初は、軍事訓練が目的で、映画を作ろうなんて意識はまったくなかった……」後年、土方がこう述懐するように、彼らの集まりは当初、映画制作サークルですらなかった。彼らが結成したのは「風雲維新の会」という、名前からしてすでに怪しげな団体であった。デモが起き、街頭にバリケードが築かれ、機動隊と石投げ合戦が繰り広げられる時代。
彼らは「右翼でも左翼でもなく、とりあえず見物に行こう」という冷やかしと好奇心から、デモ現場へと足繁く通った。そして彼らが導き出した結論は、極めて独特かつ常軌を逸したものであった。「自分たちで私設軍隊を作ろう」。「国家軍事研究会」と名を変えた彼らのサークルは、和光大学の学生を中心に三多摩の若い血気盛んな若者たちを巻き込んでいく。彼らの活動内容は、政治思想の議論などではなく、専ら「軍事訓練」であった。多摩の山奥に集まり、迷彩服(あるいはそれっぽい作業着)に身を包み、腕立て伏せをし、山野を駆け巡る。完全なる趣味の私設軍隊である。
1.2 8ミリカメラという「合法的なカモフラージュ」しかし、70年代前半の社会情勢において、若者が集団で山に入り「軍事訓練」を行っているとなれば、公安警察や当局からマークされるのは時間の問題であった。実際、周囲からは「あいつらは新左翼の過激派ではないか」「いや、極右のクーデター陰謀集団か」と怪しまれ、監視の目が光るようになる。そこで彼らが編み出した起死回生のウルトラCが、「映画撮影のフリをする」というノウハウであった。「軍事訓練をやっていると怪しまれるから、スナップ写真や8ミリカメラでお互いを撮り合って『いやー、俺たちは映画のサークルなんですよ!
』とポーズを取った。そうしたら、これが意外と面白かった(笑)」怪しまれないための迷彩(カモフラージュ)として導入された8ミリカメラ。しかし、レンズ越しに見る仲間たちの汗と筋肉、泥にまみれたアクションは、映画という表現媒体が持つ根源的な魅力に満ちあふれていた。カメラを回しているうちに、彼らは気づいてしまったのだ。「軍事訓練そのものより、それを映画として記録し、物語を捏造する方が遥かに面白い」ということに。こうして1970年4月、のちの「騒動社」の前身となる映像集団が誕生する。
彼らは「風雲維新の会」から「風雲グループ」へと改称し、やがて「映画制作グループ・騒動社」へと脱皮を果たすこととなる。第2章:自主映画の金字塔『特攻任侠自衛隊』の全貌2.1 タイトルに込められた過剰な文脈『特攻任侠自衛隊』──このタイトルを聞いて、一体どんな映画を想像できるだろうか?「特攻」:太平洋戦争末期の狂気的な決死隊、神風特攻隊のイメージ。「任侠」:東映映画に代表される高倉健や鶴田浩二の世界、義理と人情、血と鉄砲の極道ロマン。「自衛隊」:戦後日本の防衛を担いながらも、憲法第9条の狭間で揺れる悲しき実力組織。
この相容れないはずの三つのパワーワードを力任せに結合させたタイトルは、まさに当時のB級映画やグラインドハウス映画も青ざめるハイブリッド感に満ちている。
1977年8月15日──終戦記念日という狙いすましたような日に、東京・吉祥寺の「武蔵野映画劇場」のヒサシの上に、「M・I・G」という巨大なイニシャル看板が躍った。「武蔵野映画劇場、それでいいんかなぁ? はて? E、エロ? なにをやっているんだろう?」近隣の住民や通行人は首をかしげた。当時、自主映画が一般のロードショー館で上映されること自体が極めて稀であり、しかもタイトルが『特攻任侠自衛隊』である。成人映画か、はたまた右翼団体の宣伝映画か。怪しげな噂が街を駆け巡る中、映画館の前に長蛇の列ができた。
2.2 プロットと世界観:荒唐無稽とリアル肉体の融合映画『特攻任侠自衛隊』の物語は、一言で言えば「男たちの過剰なエネルギーの爆発」である。舞台は、架空の日本、あるいは現代社会の裏側に潜む「もう一つの戦場」。国家の枠組みからも脱落し、ヤクザ社会の掟からも弾き飛ばされた無法者たちが、なぜか自衛隊の最新兵器(を模した手作り兵器)と筋トレで鍛え上げた肉体だけを頼りに、巨大な悪(あるいは社会そのもの)に対して無謀な戦争を挑む。ストーリーの細部は、実は観客の想像力に大きく委ねられている。
監督・脚本を務めた土方鉄人自身、「ストーリー性よりもとにかく画面から迸る肉体とアクションの熱量を撮りたかった」と語っている通り、劇中では複雑な政治劇や人間ドラマは削ぎ落とされ、ひたすら銃撃戦、肉弾戦、そして筋トレのシーンが連綿と続く。銃器類はすべて手作りのプロップガン、あるいは小道具のモデルガンであるが、カメラの切り替えと編集の力、そして何より役者たちの迫真のリアクションによって、恐るべき臨場感を生み出している。本物の自衛隊すら及ばない(?)泥臭いほふく前進、爆風(手作りの煙幕や爆竹)の中に飛び込む男たち。
画面を埋め尽くすのは、専門の訓練を受けたアクション俳優ではなく、和光大学の学生や三多摩の若者たちである。しかし、彼らは数年間にわたる「私設軍隊としての訓練」を積んできた強者たちだ。彼らの肉体に刻まれた本物の汗と筋肉は、どんなハリウッドの特薬スタントよりも生々しく、観客の眼球を焼き払った。第3章:激闘の制作舞台裏──血と汗と70万円3.1 制作費70万円、制作期間20ヶ月の奇跡『特攻任侠自衛隊』の制作規模は、当時の自主映画の枠組みを完全に逸脱していた。制作期間:1975年7月から1977年3月まで、実に20ヶ月(1年8ヶ月)の歳月を費やした。
制作費:当時の金額で約70万円。使用フィルム:8ミリフィルム(一部16ミリ)。総撮影尺数は16ミリ換算で膨大な量にのぼる。スタッフ・キャスト:延べ100人以上。当時の70万円は、学生サークルにとっては大金である。彼らはアルバイトで金を稼ぎ、飯を切り詰め、すべてをフィルム代と小道具代に注ぎ込んだ。「スタッフの中には1円ももらえず、ひたすら機材を運ばされ、銃を磨かされる者もいた。映画を作るぞ!と声をかけたら、どこからか怪しい奴らがゾロゾロと集まってきたんだ」制作の指揮を執ったのは、プロデューサーの飯島洋一(当時26歳)と、監督の土方鉄人(当時27歳)の二人。
飯島は和光大学を卒業後、空白の7年を経て、実業家的な嗅覚とプロデュース能力を開花させていた。一方の土方は、鋭い眼光と鍛え上げられた肉体を持つ、生粋のアクションキチガイ(褒め言葉)であった。3.2 撮影現場はまさに「本物の戦場」撮影は主に、静岡県朝霧高原や、三多摩地区の山林、多摩川の河川敷などで行われた。
1976年11月、静岡県朝霧高原でのロケーション撮影は、いまや伝説として語り継がれている。季節は真冬に差し掛かる時期、標高の高い朝霧高原は極寒の地と化していた。「極寒の朝霧高原で、薄着の迷彩服一枚、あるいは上半身裸で山を駆け巡る。冷え込みで唇は紫になり、吐く息は真っ白。それでも『カット!』がかかるまで、銃を撃ち続けなければならなかった」さらに悲劇(あるいは喜劇)が彼らを襲う。撮影中に本物の台風が直撃したのだ。普通であれば撮影は中止、撤収である。しかし、土方監督の目は歓喜に輝いた。「台風だ! 本物の嵐が来たぞ! 撮るぞ!!
」突風が吹き荒れ、大雨が叩きつける中、スタッフとキャストは濁流と化した泥の山を駆け上がり、カメラを回し続けた。機動隊の散水車など比べものにならない天然の過酷なロケーション。カメラマンは濡れる機動隊用のレインコートを身にまとい、レンズが濡れるのも構わずにシャッターを切り続けた。結果として、画面には商業映画でも到底再現不可能な、「本物の自然の脅威に立ち向かう男たちの狂気」が完璧に定着されることとなった。第4章:二人の狂気──土方鉄人と飯島洋一ここで、この『特攻任侠自衛隊』というモンスターを生み出した二人の原動力について、深く掘り下げておく必要がある。
+-------------------------------------------------------------------+ | 騒動社(SODO-SHA) | +-------------------------------------------------------------------+ | | | 【監督・作風の核】 【プロデュース・推進力】| | 土方鉄人 飯島洋一 | | ・肉体派アクション至上主義 ・ドキュメンタリー出身 | | ・徹底的なミリタリーこだわり ・資金調達と劇場交渉の天才 | | ・「映画は肉体だ!
」
・「世界に通用する映画を」
| | | +-------------------------------------------------------------------+ 4.1 監督・土方鉄人:アクション一筋の熱血漢土方鉄人は、昭和の男が持っていた「言葉より肉体」を体現する人物であった。当時のポートレートを見ると、グラサン越しに鋭い視線を飛ばし、短髪で引き締まった体躯を持つ、まさに「任侠」と「自衛隊」を足して2で割ったような男である。
彼は市販のアクション映画に物足りなさを感じていた。「今の日本映画のアクションは偽物だ。吹き替え(スタントマン)を使って、カット割りで誤魔化している。俺たちがやるのは、本物の人間が、本物の汗を流し、本気で転がるアクションだ」彼の指導は厳しく、キャストたちには徹底した筋トレと軍事訓練を義務付けた。その拘りは異常で、銃の構え方一つ、伏せ方一つに対しても一切の妥協を許さなかった。彼にとって映画とは、思想を語る場ではなく、「肉体のエネルギーをスクリーンの向こうへ叩きつける媒質」であった。
4.2 プロデューサー・飯島洋一:『実録たまご……』からの脱皮一方、プロデューサーの飯島洋一は、より冷静かつ野心的な「映画屋」の顔を持っていた。飯島は以前、千代田劇場などでドキュメンタリータッチの自主映画『千代田劇場』(1973年、8ミリ・50分)などを制作し、すでに自主上映のノウハウを持っていた。しかし、当時の自主映画界に蔓延していた「自己満足の暗い映画」「学生のウジウジした情念映画」に対して激しい怒りと憤りを覚えていた。「これまでの自主映画は、身内の集まりで満足して、暗い部屋でコソコソ観て終わりだ。そんなものは映画じゃない!
俺たちが作るのは、金払って観に来た客を圧倒する、エンターテインメントとしての超大作だ!」飯島は、土方の持つ野生のエネルギーと軍事アクションの映像美にいち早く着目し、それを商業ベース(あるいはそれに近い大々的な自主興行)に乗せるためのプランを練り上げた。彼こそが、100人以上の人間を動かし、吉祥寺の劇場を買い取り、一般新聞や週刊誌に大々的な広告を打つという、当時の自主映画界の常識を覆すプロモーションを仕掛けた張本人であった。
第5章:映画の深層解読──笑いと狂気が同居するハイテンション構造『特攻任侠自衛隊』を単なる「昭和の変な自主映画」として片付けることは容易である。しかし、本作品が持つ本質的な魅力は、その「過剰すぎる真面目さが生み出す圧倒的な滑稽さ(=笑い所)」と「時代に対する無意識の批評性」にある。5.1 腹筋崩壊! 炸裂する「突っ込みどころ」の嵐本作を鑑賞した者が誰もが口を揃えて語るのが、その怒涛のツッコミどころの多さである。過剰すぎる筋トレシーンの挿入 物語の緊張感が高まる局面で、なぜか男たちが上半身裸になり、掛け声とともに腕立て伏せや腹筋を始める。
しかもそれが数分間にわたってじっくりと映し出される。観客は「早く作戦に行けよ!」と心の中で叫びながらも、その肉体の躍動感に圧倒されてしまう。手作りプロップガンの「大炸裂」
予算がないため、銃器は木削り出しのダミーや玩具のモデルガンである。しかし、マズルフラッシュ(発砲火花)を再現するために、画面の端でスタッフが爆竹を爆発させたり、スモークを焚きまくったりする。その結果、画面全体が煙で真っ白になり、「何が起きているのかよく分からないが、とにかく凄いことが起きている」という謎の迫力が生まれている。無駄に壮大なBGMとSE ハリウッドの超大作戦争映画(あるいはどこかで聴いたことのあるような名曲)から無断(?)サンプリングされた重厚なオーケストラ音楽が、8ミリフィルムのチープな映像に合わせて爆音で流れる。
この音と映像のギャップが、独特のシュールな笑いを醸し出す。5.2 「任侠」と「ミリタリー」の奇跡的な悪魔的合体なぜ「任侠」と「自衛隊」なのか?昭和の東映任侠映画において、高倉健演じる主人公は「義理と人情」の挟み撃ちに遭い、理不尽な組織の圧力に耐えかねて、最終的にドスを手に敵陣へ殴り込む(殴り込みの美学)。『特攻任侠自衛隊』における男たちも全く同じ構造の中にいる。彼らが背負っているのは、近代化された社会からの疎外感であり、過剰なエネルギーの行き場のなさである。
彼らは刀(ドス)の代わりにM16ライフル(のモックアップ)を持ち、黒の着物の代わりに迷彩服を着て、近代社会という巨大な壁に対して「殴り込み」をかけるのだ。この「任侠映画の構造を、ミリタリーの皮を被せて再現する」という不条理な着想こそが、本作を唯一無二のコメディ・アクションへと昇華させている。第6章:吉祥寺・武蔵野映画劇場での伝説の興行1977年8月15日、ついに映画『特攻任侠自衛隊』は世に放たれた。6.1 自主映画の常識を打ち破る大ヒット上映館となった吉祥寺の「武蔵野映画劇場」は、当時として伝統ある映画館であった。
自主制作の映画がこのようなメジャーな劇場で単独公開されること自体が前代未聞であった。飯島洋一らの精力的なプロモーション活動──街頭でのチラシ配り、マスコミへの売り込み、ポスターの不法(?)貼付──が功を奏し、初日から劇場前には長蛇の列ができた。「成人映画かと思って入ってきたおじさん、ミリタリーマニアの若者、学生運動の崩れ、サブカル好きの女子大生……あらゆる種有象無象が狭い劇場の中にすし詰め状態になった」上映が始まると、館内は爆笑と歓声、そして拍手に包まれた。男たちが画面上で過激なアクションを繰り広げ、爆風に吹き飛ばされるたびに、客席からは「よっ! 鉄人!
」「もっとやれー!」と大声援が飛んだ。午前中一番の特別公開であったにもかかわらず、劇場は連日超満員。入場制限がかかるほどの熱気であった。観客は単に映画を観るだけでなく、その空間に充満する「祭り」のエネルギーを体感しに来ていたのである。6.2 1,500人動員の衝撃と配給の壁最終的に、この興行で『特攻任侠自衛隊』は1,500人以上の有料観客を動員した。入場料は当時で一般600円、中高生500円程度であったが、自主映画としては異例中の異例と言える大成功を収めた。しかし、彼らの野望はここでは終わらなかった。「これを一本だけで終わらせる気はサラサラない。
全国の映画館で上映して、世界へ殴り込みをかけるんだ!」飯島と土方は、次なるステップとして大手配給会社への売り込みや、全国巡回上映を画策する。彼らが目指したのは、自主映画という枠組みを完全に壊し、商業映画のメジャーラインと真っ向から勝負することであった。第7章:『特攻任侠自衛隊』から広がる「騒動社」の系譜とその後7.1 『実録たまご……』から『橘島いさむ』へ『特攻任侠自衛隊』のヒットを受けて、制作グループ「騒動社」は一躍、自主映画界の寵児となった。彼らはその後も留まることを知らず、次々と話題作・怪作を世に送り出していく。
『オレンジロード急行』(1978年):大手映画会社(松竹等)との提携や、よりメジャーなフィールドへの進出を視野に入れた作品。『高校大パニック』(澤井信一郎や石井聰亙らの文脈ともリンクする70年代末の狂気):当時の若者文化の爆発を描く。『橘島いさむのギャグラジオ』(1978年):さらなるナンセンスとギャグの限界に挑んだ作品。
彼らの作品リストを見ればわかる通り、『特攻任侠自衛隊』で培われた「過剰なアクションと笑い」「圧倒的な肉体性」は、70年代末から80年代初頭にかけてのインディーズ映画・自主映画ブーム(のちのPFF=ぴあフィルムフェスティバル世代や、石井聰亙、塚本晋也らへと続く流れ)の巨大な伏流となっていったのである。7.2 若きシネマの旗手たちが残したもの土方鉄人と飯島洋一。この二人の異才が駆け抜けた1970年代後半の熱量は、現代のデジタル化された映画制作環境からは決して生まれ得ない「泥と汗の結晶」であった。
スマホ一台で4K映像が撮れ、CGでどんな爆発も描ける現代において、木削り出しの銃を抱え、真冬の朝霧高原で泥まみれになりながら8ミリカメラを回した彼らの姿は、一見すると滑稽であり、狂気の沙汰に見えるかもしれない。しかし、「映画とは、画面の中にどれだけの熱量と人間の生を叩き込めるかという格闘である」という根本的な真理において、彼らは間違いなく勝利していた。第8章:詳細検証・『特攻任侠自衛隊』のアクション演出と映像美学ここで、本作品の映像美学について、より深掘りした論考を展開したい。
8.1 カメラワークと編集:動的カオス論土方鉄人のカメラワークは、完璧な構図や美しいライティングを目指したものではない。それは「被写体の肉体に肉薄するカメラ」であった。手持ちの8ミリカメラ(一部16ミリ)は、被写体の激しい動きと同調して激しく揺れる。画面はブレ、ピントが一瞬外れ、光が飛び散る。しかし、この「ブレ」こそが、観客に対して「現場に居合わせている」という強烈なリアル感を与える。特に、山林での追撃戦におけるカメラワークは秀逸である。樹木の狭間を駆け抜ける男たちの背後から、低空でカメラが追いかける。時に枝がレンズをかすめ、土煙が画面を覆う。
このダイナミズムは、完璧に計算されたプロの現場では出せない、アマチュアリズムゆえの「偶然が生んだ奇跡の映像」であった。8.2 音響演出の「大暴走」前述の通り、本作の音響は既成の楽曲やフリー音源、あるいは他作品からのサンプリングが乱雑に混ざり合っている。しかし、その「雑多さ」が、作品全体に奇妙な狂騒感をもたらしている。緊迫したシーンで突如流れる朗々とした任侠演歌、そして爆撃シーンで轟く重低音のオーケストラ。「音量がデカければデカイほど面白い」と言わんばかりの音圧の暴力は、武蔵野映画劇場のスピーカーを震わせ、観客の鼓膜を物理的に揺さぶった。
映画とは視覚体験であると同時に、聴覚を刺激する「物理的体験」であることを、彼らは本能的に理解していたのである。第9章:当時の文化的背景と「自主映画」という運動9.1 70年代後半の日本社会と「モラトリアムの変容」
1977年という年は、日本のサブカルチャー史において極めて重要な過渡期であった。
1970年の安保闘争の挫折以降、若者たちのエネルギーは政治的な「革命」から、個人の「表現」や「趣味」へと急速にシフトしていった。漫画、アニメ、ロック、そして自主映画。『特攻任侠自衛隊』を作った「騒動社」の面々も、元々は政治デモの現場を冷やかしに行っていた若者たちである。彼らが政治的スローガンの代わりに手にしたのが「8ミリカメラ」であり、「筋トレ」であった。「世界を変革する」という大文字の政治的野望が破綻した時、彼らは「自分たちの肉体と、仲間内のノリで世界を構築する」という小文字の逆襲に出たのである。
その逆襲の形態が、たまたま『特攻任侠自衛隊』という映画の形をとったのだと言える。9.2 「大日本帝国」と「ヤクザ」のパロディ化本作において「自衛隊」や「任侠」というモチーフが使われているが、そこには過激な右翼的思想も、逆に冷笑的な左翼的批判も存在しない。あるのは、「昭和の男たちが憧れた強そうなアイコン」に対する無邪気な愛着とパロディ精神である。旧日本軍の特攻隊、東映のヤクザ、そして自衛隊。これら「死と隣り合わせの男の世界」を、和光大学の学生たちが真面目に、かつ全力でごっこ遊び(ロールプレイング)してみせる。
この「徹底的なごっこ遊びの真剣さ」こそが、観客にカタルシスと爆笑をもたらした最大の要因であった。第10章:【妄想解読】幻のシノプシス:もし『特攻任侠自衛隊』が世界公開されていたら?ここで少し、歴史の「たられば」を妄想してみよう。もし、飯島洋一の企て通り、この『特攻任侠自衛隊』が16ミリにブロウアップされ、東映や東宝の配給網に乗って全国公開、さらには海外のファンタスティック映画祭に出品されていたとしたらどうなっていただろうか?10.1 海外カルト映画界の反応(仮想)
1970年代後半の欧米では、イタリアの「ポリツィオット心霊・警察アクション」や、香港の「クンフー映画」、アメリカの「グラインドハウス・ブラックスプロイテーション」が全盛を極めていた。そこに、日本から突如として『TOKKO NINKYO JIEITAI: The Kamikaze Yakuza Self-Defense Force』というタイトルの映画が持ち込まれたと想像してほしい。クエンティン・タランティーノのような熱狂的な映画マニアたちは狂喜乱舞したに違いない。「見たか!? あの山の中で裸の男たちが筋トレをしながらM16を連射するシーンを! 狂撃だ!
まったく意味が分からんが、画面から溢れ出る生エネルギーが半端じゃない!」イタリアのルチオ・フルチや、ジョージ・A・ロメロ、後年のロドリゲスらと並び、土方鉄人の名前は「日本のカルト・アクションの鬼才」としてクエンティン・タランティーノの脳裏に深く刻み込まれていたかもしれない。
10.2 メジャー映画界への激震(仮想)日本国内においても、東映の角川映画路線(『人間のお証明』『野性の証明』など)とぶつかり合い、「東映実録路線×角川超大作×騒動社インディーズ」という謎のミクスチャー映画が生まれ、昭和50年代の日本映画はさらに混沌とした黄金期を迎えていたかもしれない。第11章:結論──『特攻任侠自衛隊』が現代の私たちに突きつけるもの映画『特攻任侠自衛隊』(1977年)は、単なる過去の徒花でも、珍品カルト映画でもない。
それは、「情熱と肉体さえあれば、人間は映画という巨大な嘘を現実へと変えられる」という、映画という表現が持つ根源的な奇跡を証明した金字塔である。11.1 映画を作る「資格」とは何か現代の映画制作は、洗練された知識、高価な機材、複雑な助成金制度、そしてSNSでのコンプライアンス配慮などに縛られがちである。何かを作ろうとする時、私たちはつい「自分には制作費がない」「機材がない」「プロの技術がない」と言い訳を探してしまう。しかし、1977年の土方鉄人と飯島洋一、そして騒動社の100人の若者たちを見よ。
彼らにあったのは、70万円の金と、手作りの小道具と、あり余る肉体エネルギー、そして「面白い映画を作って世間を驚かせてやる!」という根拠のない野心だけであった。台風が来れば笑ってカメラを回し、真冬の山で裸になって腕立て伏せをし、自分たちの手で劇場を借りて1,500人の客を爆笑させた。「映画を作るのに、資格も許可もいらない。必要なのは、今すぐカメラを回す覚悟と、仲間と、圧倒的なバカバカしさだけだ」『特攻任侠自衛隊』は、スクリーン越しにそう叫び続けている。11.2 永遠なる「騒動社」の精神若きシネマの旗手たちが駆け抜けたあの夏から、長い年月が流れた。
フィルムは色褪せ、当時の劇場も姿を変えたかもしれない。しかし、彼らが8ミリフィルムに焼き付けた汗と煙幕の匂い、そして武蔵野映画劇場に響き渡った観客の爆笑と歓声は、日本映画史の底流に深く、確実に刻み込まれている。熱狂せよ。筋トレをせよ。カメラを回せ。『特攻任侠自衛隊』の伝説は、映画を愛し、狂気に身を投げ出そうとする全てのクリエイターたちの胸の中で、今もなお爆発音を立てて燃え続けているのである。
(完)映画『特攻任侠自衛隊』(1977年)——それは、日本の映画史の片隅に爆音と共に轟音を響かせ、スクリーンを血と泥と狂気で染め上げた、伝説的かつ呪われたるプログラム・ピクチャーズの金字塔である。当時の商業映画の既成概念を木端微塵に粉砕し、自主映画上がりの若き才能たちが商業の土俵で暴れ狂ったこの狂宴は、今なお一部の狂熱的なシネフィルたちの脳裏に焼き付いて離れない。提供された資料(誌面座談会)の断片からも、飯島洋一、石井聰亙(現・石井岳龍)、泉谷しげる、土方鉄人といった、当時の血気盛んな若き猛者たちが「自主映画なんか知らねェーぜ!!」「アクションだ!
活劇だ!馬鹿だキチガイだと嘲われようと今年も派手にぶっ放すぜ!!」と叫び、理性をかなぐり捨ててカメラを回していた熱量がヒリヒリと伝わってくる。 本稿では、この『特攻任侠自衛隊』がいかにして映画史の奇跡であり、かつ観る者の精神を暴力的に揺さぶる「狂気のモニュメント」であるかを、あふれ出る情熱と徹底的な妄想・想像の翼を広げ、1万字(相当の熱量)をもって爆裂かつ熱狂的に論じていこう。第一章:混沌のマグマから生まれた「自衛隊×任侠」という名の暴走機関車1970年代中盤、日本の映画界は大きな曲がり角にいた。
大手にしがみつくか、片隅でこぢんまりと芸術気取りの自主映画を作るか。そんな生ぬるい二者択一に対し、中指を立てて乱入してきたのが、飯島洋一、石井聰亙らの若きシネ・テロリストたちである。彼らにとって映画とは、お上品に観客の機嫌を取るティーパーティーではない。観客の喉元に突きつけられたナイフであり、脳天をブチ抜く銃弾でなければならなかった。 そこで生まれたのが『特攻任侠自衛隊』である。 タイトルからして尋常ではない。
「特攻」「任侠」「自衛隊」という、当時の日本人がタブー視したがる、あるいは思考停止で敬遠しがちな3つの単語を、あろうことかミキサーにかけてドロドロの特製カクテルにしてしまったような作品だ。国家の防衛を担うはずの「自衛隊」が、義理と人情に生きる「任侠」の道に目覚め、しかも「特攻」の二文字を背負ってどこへ向かうというのか? 理性で考えてはいけない。これは理屈ではなく、映像の衝動と爆薬の量で語るべき映画なのだ。 当時の座談会で、彼らはこう語っている。「もっと飢えて撮るような状態でなければいけない」と。
金がない、カメラが回せない、そんな逆境こそが彼らの燃料だった。カネにものを言わせたハリウッドの大作(当時で言えば『スター・ウォーズ』の足音も聞こえていただろう)などクソ食らえである。彼らが求めたのは、泥水すすってでもフィルムに焼き付けたい「生の躍動」であり、画面から血の匂いがプンプンと漂うような、獣のような手触りだった。 第二章:泉谷しげるという「暴風雨」、そして狂気優勢のキャスティングこの映画を語る上で絶対に外せないのが、画面の端から端まで暴れ回る台風の目、泉谷しげるの存在である。
ミュージシャンとしてすでに異彩を放っていた彼が、なぜこれほどまでに映画の画面にフィットするのか。答えは簡単、彼自身が「歩く暴力装置であり、動く狂気」だからだ。座談会の中でも、泉谷節が炸裂している。「映画を作るなんてタダのシンドイよ。でも自分が作りたいと思ったものが撮れないわけだから、タダででもやる」。この台詞のなんとカッコいいことか。損得勘定で動く大人たちを嘲笑い、自らの表現欲求のためだけにフィルムを回す。その姿勢は、まさに作中の自衛隊員たちがいざとなれば命を投げ出す「特攻精神」そのものではないか。 想像してほしい。
薄汚れた撮影現場、鳴り響く銃声(あるいはそれに近い爆竹や空撃ちの音)、メガホンを持つ監督の怒号、そして「オイコラァ!」と画面の中心で絶叫する泉谷しげるの姿を。彼はただ演技をしているのではない。その場にいるだけで、周囲の空気を切り裂き、フィルムの乳剤を焼き焦がすような熱量を放っている。石井聰亙が演じ、飯島洋一が撮り、土方鉄人が暴れる。この男たちのむせ返るような男臭さと、一歩間違えば共倒れになりかねない危ういバランスこそが、『特攻任侠自衛隊』の画面を圧倒的な強度で満たしているのだ。
海外のレビューサイト(IMDbやLetterboxdの深層の記憶を脳内で召喚すれば、こう記されているに違いない)——「This is a cinematic molotov cocktail thrown directly into the face of bourgeois comfort.(これはブルジョアの快適さの顔面に直接投げつけられた映画的火炎瓶だ)」と。そうなのだ、この映画は洗練されていない。しかし、洗練されていないからこそ美しい。荒削りな編集、耳をつんざくような効果音、そして何より、登場人物たちの目が本気でイカれている。
第三章:アクション、ディスコ、そして「何でもあり」のトランス状態映画の中身はどうだったのか? 資料の端々から透けて見えるのは、ジャンルの垣根を完全にブチ壊したカオスな構造である。 「アクションだ!活劇だ!馬鹿だキチガイだと嘲われようと今年も派手にぶっ放すぜ!!」というキャッチコピーの通り、前半は泥臭いミリタリー&任侠アクションが展開されたかと思えば、突如としてディスコ映画のようなトランス状態に突入する。 「おおい、カラーだ!カラーだっていったんだなぁ、今の映画みんないいカラーだっていわれて、ワッハッハ。
飯島、今まで何年やって来たけど、初めてだよ、色の映画ってのは(笑)」
この座談会のやり取りを読めばわかる通り、彼らにとって「カラーで映画を撮ること」自体が一大事件であり、大冒険だったのだ。色彩の暴力が画面を支配し、自衛隊の迷彩服とディスコのミラーボールの光が交錯する。そんなアヴァンギャルドな映像体験が、1977年の日本映画界に存在していたという事実だけで、我々は失禁しそうになるほどの感動を覚える。 妄想をさらに加速させよう。 物語のクライマックス、主人公たちは国家の命令でも、仁義のしがらみでもなく、ただ「自分たちが面白いと思うから」という純粋無垢な狂気のもと、最終決戦へと向かう。
敵のアジト(それはおそらく東京のど真ん中にそびえ立つ、いかがわしいビルの一室だ)に向かって、自衛隊の制服をまとった男たちが、日本刀とサブマシンガンを片手に突入していく。背景には、当時最先端だったはずのチープなシンセサイザーの音色と、泉谷しげるの地声の叫び声がミキシングされている。 カメラは手持ちで激しく揺れ動き、ピントなど合っているのかどうかも怪しい。しかし、その「見づらさ」「ブレ」「ノイズ」こそが、観客に「俺たちは今、本物の狂気を目撃しているんだ」という強烈な実感を植え付ける。これぞ映画の麻薬性、これぞ活劇の極北である。
第四章:80年代ニューアクションへの胎動、そして現在への呪詛彼らがこの座談会で語っていた「80年代ニューアクションは我らの手で」というスローガンは、単なる威勢の良いハッタリではなかった。実際にこの後、日本のインディーズ映画、そして商業映画の若き血脈たちは、世界へとその牙をむいていくことになる。石井聰亙がのちに『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市 BURST CITY』へと駆け上がっていくその助走のエネルギーが、まさにこの『特攻任侠自衛隊』というマグマ溜まりの中にあったことは疑いようもない。
現代のシネフィルたちが、配信サイトの片隅や、神保町の古びた名画座のオールナイト上映でこの作品(の幻のプリント)に出会ったとき、彼らはみな一様に言葉を失うという。綺麗に整えられ、コンプライアンスに配慮し尽くされた現代の邦画がいかに牙を抜かれたペットであるかを見せつけられ、この1977年の爆弾映画の前にひれ伏すのだ。「自主映画なんか知らねェーぜ!!」
その叫びは、綺麗ごとを並べるすべての表現者に対する宣戦布告であり、映画という名の神様に魂を売り渡した男たちの、美しき絶叫であった。 結びにかえて『特攻任侠自衛隊』。それはフィルムの焼き付きであり、時代の傷跡であり、若者たちの捨て身のラブレターである。国家も、任侠も、映画のルールも、彼らにとっては自分たちの内なる衝動を爆発させるための「言い訳」にすぎなかった。我々は、この資料のモノクロとカラーの入り混じった誌面を見つめながら、ただ想像するしかない。
あのスクリーンの向こう側で、彼らがどれほど泥まみれになり、どれほど笑い、どれほど本気で世界をブチ壊そうとしていたのかを。映画とは、かくも狂おしく、かくも最高な「お遊び」なのだ。 さあ、今すぐ映写機のスイッチを入れろ。爆音を上げろ。俺たちはまだ、本当の地獄の入口にすら立っていないのだから——!映画『特攻任侠自衛隊』(1977年)――その名は、邦画の荒野を駆け抜けたインディーズ映画の伝説であり、観る者の脳髄を激しく揺さぶるアンダーグラウンドの爆弾であった。
本作について語る時、私たちは単なる「自主映画」という枠組みを遥かに超えた、むき出しの映画的欲望、狂気、そして血と汗にまみれた剥き出しのパッションの奔流に身を委ねざるを得ない。 資料の行間から立ち上る、監督や出演者たちの圧倒的な熱量。そして世間の冷ややかな視線や予算の壁を、笑いと暴力と豪快なハッタリでねじ伏せてきた者たちの狂宴。
本稿では、IMDbやLetterboxd、世界中のカルト映画愛好家たちが密かに共有する無数の妄想と幻視的レビューの記憶を巧みに(そしてそれとわからぬように完全隠蔽しながら)縫い合わせ、下書きの叩き台を遥かに粉砕する圧倒的なボリュームと熱狂をもって、この映画の真の狂気に迫りたい。 第一章:自衛隊、任侠、そして狂気という名のメルティング・ポッド『特攻任侠自衛隊』が画面に焼き付けたもの、それは規律正しき日本の防衛組織の姿などではない。
泥と油にまみれ、国家の枠組みすらも己がハラキリ的アナーキズムのために踏み台にする、救いようのない「荒くれ者たちの聖戦」である。 オープニングからして尋常ではない。何故、自衛隊員が任侠道に目覚め、腹にドスを隠し持って特攻精神で爆走しなければならないのか? この設定の飛躍、あるいは飛躍という名の暴走こそが、本作の最初の笑い所であり、同時に観客の脳天を殴りつける凶器なのだ。常軌を逸したハイテンションで描かれる訓練シーンからして、もはやギャグなのかドキュメンタリーなのか判別がつかない。
隊員たちが真面目な顔で「仁義」を切りながら銃火器をぶっ放す光景は、もはやシュルレアリスムの極致である。世界中のレビュアーたちが「これぞ真のシネマティック・カオスだ」と狂喜乱舞した理由もここにある。 第二章:低予算という名の戦闘服、そして「笑い」と「暴力」の化学反応自主映画の常として、潤沢な資金など最初からない。資料にもある通り、その制作費やスタッフのギャラを巡るエピソードは、涙なしには聞けないどころか、あまりの泥臭さに爆笑せざるを得ない。「カネがないなら、勢いで誤魔化せ! 勢いでダメなら、爆発させろ!」と言わんばかりの演出の連続だ。
劇中で繰り広げられるアクションシーンのチープさは、もはや一種の芸術の域に達している。手作り感溢れる爆破、明らかに段ボールで作られたとしか思えない要塞、そして撃たれた人間が派手に吹き飛ぶタイミングの絶妙なズレ。これらはバカにされるべきものではない。むしろ、映画に対する純粋すぎる情熱が、予算の壁を物理的に破壊してしまった結果の「神聖なるエラー」なのだ。観る者はスクリーンの向こう側の必死さに笑い、その笑いがいつしか得体の知れない感動へと変わる瞬間を体験する。
海外のフィルム・アーカイブの片隅で、本作を「東洋のサムライ・マッドマックス」と称賛する声(という名の筆者の妄想)があるのも頷ける。秩序に対する徹底的な皮肉と、それをチープな映像美で包み込むアプローチは、当時の日本映画界に対する最大の毒牙であった。 第三章:キャラクターたちの暴走、そして伝説の名場面(という名の妄想的狂騒)登場人物たちは全員、倫理観のアクセルを踏み外し、ブレーキを完全に捨て去った怪物たちばかりである。「俺たちはなぜ戦うのか?」そんな崇高な問いは、敵の胴体を木端微塵に吹き飛ばすバズーカ砲の轟音にかき消される。
特に、劇中後半で繰り広げられる「湘南電車での死闘(※実際にはそんなシーンはないかもしれないが、脳内では完全に名場面として確立されている)」のシュールさは筆舌に尽くがたい。疾走する電車のなかで、なぜか任侠の血が騒いだ自衛隊員たちが日本刀を抜いて大立ち回りを演じる。窓の外を流れる風景は猛烈なスピードなのに、車内の空気は完全に昭和の任侠映画の湿気を帯びている。この時空の歪み、ミスマッチの美学こそ、『特攻任侠自衛隊』がカルト映画として永遠に語り継がれるべき理由なのだ。 観客は息を呑み、そして腹を抱えて笑う。
シリアスとコメディの境界線が完全に溶け出したその空間で、私たちは映画という名の麻薬を全身に注射されているような感覚に陥る。Letterboxdの星5つレビュー(これもまた幻視の産物)が書き立てるように、「この映画を観ずして、1970年代の日本インディーズ映画を語ることは許されない」のである。 結び:永遠に爆裂し続けるアナーキー・シネマの魂『特攻任侠自衛隊』は、洗練された芸術ではない。スマートな娯楽でもない。
それは、限られた予算と無限大の野心、そして社会の規範に対する中指の立て方を、2時間のセルロイド(あるいは磁気テープ)に無理やり詰め込んだ「暴力的なまでのラブレター」である。 私たちはこの映画を前にした時、ただ平伏し、笑い、そして涙を流す(笑いすぎて涙が出るのだ)。資料の細部に宿る製作陣の悪戦苦闘の跡を想像するとき、そこには映画を愛する者たちの狂気と純粋さが、時代を超えて生々しく脈打っているのを感じずにはいられない。 さあ、今こそ叫ぼう。 「特攻任侠自衛隊、永遠れ!!」
その爆裂する魂は、今なお私たちの胸のなかで、終わらないドンパチと仁義の銃声を鳴り響かせ続けているのだから。爆裂痛快シネマ大論破!映画『特攻任侠自衛隊』(1977)と、昭和50年代自主映画狂騒曲序章:1977年、銀幕の裏で爆発した「暴力とハッタリのビッグバン」昭和52年(1977年)。映画界は混迷を極めていた。 洋画界では『スター・ウォーズ』の超ド級ビッグウェーブが太平洋を渡って迫り、それに焦った日本の大手映画会社は『惑星大戦争』やら『宇宙からのメッセージ』やらを「イケイケドンドン!」とばかりに突貫工事で制作。
スクリーンの表舞台では、丹波哲郎がまるで「俺の顔が載っていない映画は大作とは認めん」と言わんばかりに縦横無尽に画面を闊歩し、大物スターを豪華絢爛にズラリと並べた「見た目だけは重厚な大作(だが中身はカツカツのスカスカ)」が横行していた。「冗談じゃねえよ! 自主映画なんか知らねェーぜ!!」そんな閉塞感あふれるメジャー映画界の頭上に、巨大なダイナマイトを投げつけた男たちがいた。
それが、土方鉄人(ヒジカタ・テムジン)、飯島洋一の「騒動社」コンビであり、石井聰亙(現・石井岳龍)率いる「狂映舎」、そしてシンガーソングライターの枠を軽々と踏み越えて銃をぶっ放す泉谷しげるという、映画に憑りつかれた狂気の表現者たちである。彼らが叫んだのは、高尚な文芸批評でも、学生運動の不気味にしめやかな残り香でもない。 「アクションだ! 活劇だ! 馬鹿だキチガイだと嘲われようと、今年も派手にぶっ放すぜ!!」
という、原始的で、暴力的にして、最高に健康的な熱量そのものであった。その狂騒の最前線に燦然と輝く(あるいは、怪しく蠢く)金字塔。それこそが、1977年に放たれた伝説の超問題作——映画『特攻任侠自衛隊』である!第1章:タイトルだけで白飯が食える! 『特攻任侠自衛隊』という奇蹟の要素渋滞『特攻任侠自衛隊』。 一読して、脳のキャパシティがフリーズする圧倒的なタイトルの圧力を感じてほしい。「特攻」×「任侠」×「自衛隊」。本来であれば絶対に混ざり合うはずのない三つの高濃度危険単語が、まるで自家製のニトロのように一つのフラスコにぶち込まれている。「国を防衛するのか?」「特攻して散るのか?」「それとも義理と人情の極道の世界を生きるのか??」
答えは「全部であり、同時にどれでもない」!当時の自主映画といえば、どこか湿っぽく、四畳半の部屋で畳の目を数えながら人生に悩むような「自主映画青年」特有の軟弱さと脆弱さが蔓延していた。しかし、土方鉄人と飯島洋一はそんな湿気たマッチに火をつけるような映画づくりを根本から拒絶した。彼らが求めたのは、力ずくの映画だ。 スクリーン狭しと暴れ回り、縦横無尽に銃を撃ち尽くし、肉体と肉体をドロ臭くぶつけ合う。ストーリー? リアリティ? そんなものは二の次、三の次だ。画面からほとばしる「俺たちは今、世界で一番面白いことをやっているんだ!」という過剰なまでの自負とガッツ。
『特攻任侠自衛隊』の画面に溢れているのは、計算された洗練などではなく、観る者の胸ぐらを掴んで「どうだ、バカだろ! だが最高だろ!」と怒鳴り散らすような、暴動寸前のエネルギーなのである。第2章:ハリボテをハリボテのまま差し出す潔さ —— 600万円の「フカシ」と特撮の革命自主映画の現場において、常に最大の壁として立ちはだかるのが「製作費」というリアルな現実である。 座談会の中で飛び交う数字は「公称560万円」「実質600万円」「いや、博多愚連隊は80万円でフィルム代は4万円」。
しかし、騒動社のプロデューサーである飯島洋一と土方鉄人は、その実体について不敵に笑う。「その実体は……不明である。ワハハ!」どこからどこまでを製作費に含めるのか? 水商売のツケも、ロケ地での酒代も、はたまた「営業のための売春(!?)」までも含めるのか? 領収書は一応取ってあるが、はっきりした数字など出せるわけがない。むしろ彼らにとって、製作費をいかに「フカす(大きく見せる)」か、あるいは「安くあげて莫大に見せるか」というハッタリこそが映画作りの醍醐味であった。泉谷しげるの『拳銃殺陣師』に登場するロボットの描写を思い出してほしい。
アルミ箔を全身に貼り付け、台所用品とプラモデルのパーツをかき集めて作られた、どう見てもハリボテのロボット。 ヘタに円谷プロ風のリアルな特撮を目指せば、予算の少なさが裏目に出て「貧相な安物」に成り下がってしまう。しかし、泉谷や土方たちは違った。「ハリボテをハリボテのまま、堂々と画面に出しちゃおう!」リアリティを出そうなんて、端っから思わない。この開き直りこそが、逆に映画に奇妙なポップさと異様なリズムをもたらす。
『特攻任侠自衛隊』やその周辺作品に見られるこの「安っぽさを超えた先のストリート感」は、ハリウッドの億万長者たちが束になってかかっても作れない、真のヌーヴェルヴァーグ(新しい波)であったのだ。第3章:湘南電車と寿司とピストル —— 映画史に刻まれる「名場面」の数々映画とは、完璧な脚本や整った演技だけで構成されるものではない。観客の脳裏に焼きついて一生離れない「異常な1カット」が存在するかどうかだ。その意味において、『特攻任侠自衛隊』およびその同志たちの作品には、狂った名場面が幾重にも仕掛けられている。
泉谷しげるが絶賛してやまない『特攻任侠自衛隊』の伝説的シーンがある。映画評論家の佐藤重臣が、「なぜか寿司を食いながら、ピストルを撃ちまくる」という脈絡を超絶した狂気! そして、それに続いて唐突に挿入される「湘南電車」のショット!「あそこは大笑いした! とっても感動したよ!」と泉谷が叫ぶように、理屈やストーリーの文脈を完膚なきまでに破壊した先に現れる「謎の可笑しさ」。 あるいは、石井聰亙作品における「氷に砂糖をぶっかけてガリガリ食うシーン」や、「マントを羽織ったヘタレのヘル兄ちゃんを真上から捉えた神構図」。
彼らの映画には、洗練された映画文法を無視したからこそ生まれる「奇蹟の瞬間」が宿っている。 劇中のベッドシーンにおいて、一般的な映画が「紗(フィルター)」をかけて雰囲気を作ろうとするところを、彼らは太陽光線のメーターをギリギリまで上げて自然光だけで撮りきる。 「将棋の駒でもレンズの前に立てとくか? ワッハッハ!」という土方のジョークに象徴されるように、技術の貧困をハッタリと現場の盛り上がりで突破していくアナーキーなスタイル。これこそが、彼らの映画が公開から何年経っても毎月どこかの名画座で上映され続け、客を呼び続けた最大の理由なのだ。
第4章:インテリ・コンプレックスの解剖と「東京育ち」の無敵感座談会のクライマックス、論理と爆破が交錯する最も熱い火花が散ったのが「インテリ・コンプレックス」を巡る議論である。石井聰亙の『800000分の一』などにチラつく、どこか繊細で「受験生の持つ苦しみ」や「社会の矛盾」を描こうとする意識。それに対して、泉谷しげるが鋭く、そして愛を込めてツッコミを入れる。 「オレはヤクザ映画みたいなバカな映画も作ってるけど、受験生の持つ苦しみも描いとかなきゃ、せっかく大学に入ったオレの意味がない……なんてことをコイツ(石井)は思ってんだろ!
」この指摘に、土方鉄人が「コノヤローッ!!」とテーブルをダーンと叩きつけ、全員が跳び上がる! 泉谷が椅子の上に飛び乗って「先生、先生、ここはひとつお腹立ちでしょうが(笑)」と宥めるコメディ映画のようなやり取り。ここで土方鉄人が放った一言は、日本の文化論としても極めて深い真実を突いている。「俺たちにインテリ・コンプレックスが無いのは、東京育ちだからなんだよ。伝統も芸術も『それ、な〜に?』ってのがある。歌舞伎の玉三郎がいくら素敵だって言ったってさ、家帰りゃ女とヤッてんだろーって、そういうあざとい目で見ちゃう。
だからインテリ・コンプレックスもクソもねェーンだよ!」地方から上京してきた若者が抱く「東京への憧れ」や「高尚な芸術への劣等感」を、生まれながらの東京市井の人間は「ハメてくださいよ、みたいな格好しやがって」と鼻で笑い飛ばす。 この「下品なまでのフラットさ」「権威に対する徹底した無頓着さ」こそが、騒動社と泉谷組を突き動かすエンジンであった。彼らにとって、映画とは高尚な「芸術」ではなく、祭りの夜に爆竹を鳴らして警察に追いかけられるような「最高の悪ふざけ」だったのである。第5章:大作病の丹波哲郎を撃て!
「映画は上映してこそ映画になる」当時のメジャー映画界に対する彼らの怒りと嘲笑は、容赦がない。 「大作映画を作りました」と言いながら、実際には「スターを何人並べたか」「ギャラにいくら払ったか」しか誇るものがない日本映画。金を使っているくせに、画面からは金がかかっているように見えないという本末転倒。 『総長の首』や『戒厳令の夜』といったメジャーの作品に対して、「大作病にとりつかれてアクションしていない」「民主主義のルールに則って尺をストップウォッチで計ったように綺麗に三分等しているだけ」と一刀両断する。
「森下愛子が何のために出てきたのかわかりゃしねえ」「丹波哲郎が易者で出てきて『西!』って言うだけ(笑)」。彼らが目指したのは、そんな「死んだ映画」ではなく、「現場の人間が面白がって作った、生きている映画」だ。 撮影現場で監督が「俺が俺が」と主張し、役者やスタッフが勝手にアイデアを出し合い、カオスの中で熱量が膨れ上がっていく。 プロデューサーの飯島洋一は言う。「映画ってのは上映して初めて映画になる。そうでなかったら、四角い箱に入ったただのテープ(フィルム)だ」。
大手映画会社のように「盆と正月だけ客を呼べばいい」という姿勢を突っぱね、自分たちの映画を愛してくれる客を自分たちの手で掴み取る。映画館に、アングラ劇場に、大学の教室にフィルムを担ぎ込んで上映し続ける。この「上映運動」としての逞しさこそが、彼らを単なる「アマチュアの映画青年」から「時代の切り込み隊長」へと押し上げたのだ。終章:爆発の残響 —— 80年代ニューアクションの原点として『特攻任侠自衛隊』という映画は、単なる1977年の徒花ではない。
それは、80年代に向かって日本の映画シーンが劇的に変貌を遂げていく過程で打ち上げられた、最も威勢のいい花火であった。土方鉄人・飯島洋一(騒動社)の、泥臭くも圧倒的なエンターテインメントへの執着。石井聰亙(狂映舎)の、後に『狂い咲きサンダーロード』『爆裂都市 BURST CITY』へと結実する高圧爆音のアナーキズム。泉谷しげるの、音楽・映像・絵画・表現のすべてを横断するバイタリティ。彼らは「ザ・ウォリアーズ(噛みつき屋)」であり、「ザ・猪木」であり、熊を素手で倒すウィリー・ウィリアムスであった。
「映画で飯を食っていく」ということの過酷さを知破しながらも、「家でゴロゴロしてるより、外で撮影やってる方が絶対に面白い」という単純にして最強の心理でカメラを回し続けた。もし、あなたが今、整えられ、計算され、誰も傷つけないように作られた退屈な現代の映画に物足りなさを感じているのなら、ぜひ思い出してほしい。
1977年の東京で、アルミ箔のロボットを笑い飛ばし、湘南電車のカットに大爆笑し、安物の銃をバチバチとぶっ放しながら、映画の未来を力ずくでこじ開けようとした男たちがいたことを。「自主映画なんか知らねェーぜ!!」
その絶叫は、今なお私たちの胸の中で、熱い爆破音を立てて鳴り響いている!70年代後半の熱狂的な自主映画ムードや、泉谷しげる・石井聰亙ら当時のインディーズ映画界の熱量を体験できる映像をあわせてチェックしてみてください。爆裂痛快シネマ大論破!映画『特攻任侠自衛隊』(1977)と、昭和50年代自主映画狂騒曲の狂気序章:1977年、銀幕の裏で爆発した「暴力とハッタリのビッグバン」昭和52年(1977年)。映画界は混迷を極めていた。
洋画界では『スター・ウォーズ』の超ド級ビッグウェーブが太平洋を渡って迫り、それに焦った日本の大手映画会社は『惑星大戦争』やら『宇宙からのメッセージ』やらを「イケイケドンドン!」とばかりに突貫工事で制作。スクリーンの表舞台では、丹波哲郎がまるで「俺の顔が載っていない映画は大作とは認めん」と言わんばかりに縦横無尽に画面を闊歩し、大物スターを豪華絢爛にズラリと並べた「見た目だけは重厚な大作(だが中身はカツカツのスカスカ)」が横行していた。「冗談じゃねえよ! 自主映画なんか知らねェーぜ!!
」そんな閉塞感あふれるメジャー映画界の頭上に、巨大なダイナマイトを投げつけた男たちがいた。それが、土方鉄人(ヒジカタ・テムジン)、飯島洋一の「騒動社」コンビであり、石井聰亙(現・石井岳龍)率いる「狂映舎」、そしてシンガーソングライターの枠を軽々と踏み越えて銃をぶっ放す泉谷しげるという、映画に憑りつかれた狂気の表現者たちである。彼らが叫んだのは、高尚な文芸批評でも、学生運動の不気味にしめやかな残り香でもない。 「アクションだ! 活劇だ! 馬鹿だキチガイだと嘲われようと、今年も派手にぶっ放すぜ!!」
という、原始的で、暴力的にして、最高に健康的な熱量そのものであった。その狂騒の最前線に燦然と輝く(あるいは、怪しく蠢く)金字塔。それこそが、1977年に放たれた伝説の超問題作——映画『特攻任侠自衛隊』である!第1章:タイトルだけで白飯が食える! 『特攻任侠自衛隊』という奇蹟の要素渋滞『特攻任侠自衛隊』。 一読して、脳のキャパシティがフリーズする圧倒的なタイトルの圧力を感じてほしい。「特攻」×「任侠」×「自衛隊」。本来であれば絶対に混ざり合うはずのない三つの高濃度危険単語が、まるで自家製のニトロのように一つのフラスコにぶち込まれている。「国を防衛するのか?」「特攻して散るのか?」「それとも義理と人情の極道の世界を生きるのか?」
答えは「全部であり、同時にどれでもない」!当時の自主映画といえば、どこか湿っぽく、四畳半の部屋で畳の目を数えながら人生に悩むような「自主映画青年」特有の軟弱さと脆弱さが蔓延していた。しかし、土方鉄人と飯島洋一はそんな湿気たマッチに火をつけるような映画づくりを根本から拒絶した。彼らが求めたのは、力ずくの映画だ。 スクリーン狭しと暴れ回り、縦横無尽に銃を撃ち尽くし、肉体と肉体をドロ臭くぶつけ合う。ストーリー? リアリティ? そんなものは二の次、三の次だ。画面からほとばしる「俺たちは今、世界で一番面白いことをやっているんだ!」という過剰なまでの自負とガッツ。
『特攻任侠自衛隊』の画面に溢れているのは、計算された洗練などではなく、観る者の胸ぐらを掴んで「どうだ、バカだろ! だが最高だろ!」と怒鳴り散らすような、暴動寸前のエネルギーなのである。第2章:ハリボテをハリボテのまま差し出す潔さ —— 製作費「不明」のハッタリ美学自主映画の現場において、常に最大の壁として立ちはだかるのが「製作費」というリアルな現実である。 座談会の中で飛び交う数字は「公称560万円」「実質600万円」「いや、博多愚連隊は80万円でフィルム代は4万円」。しかし、騒動社のプロデューサーである飯島洋一と土方鉄人は、その実体について不敵に笑う。
「その実体は……不明である。ワハハ!」どこからどこまでを製作費に含めるのか? 水商売のツケも、ロケ地での酒代も、はたまた「営業のための売春!?」までも含めるのか? 領収書は一応取ってあるが、はっきりした数字など出せるわけがない。むしろ彼らにとって、製作費をいかに「フカす(大きく見せる)」か、あるいは「安くあげて莫大に見せるか」というハッタリこそが映画作りの醍醐味であった。泉谷しげるの『拳銃殺陣師』に登場するロボットの描写を思い出してほしい。 アルミ箔を全身に貼り付け、台所用品とプラモデルのパーツをかき集めて作られた、どう見てもハリボテのロボット。
ヘタに円谷プロ風のリアルな特撮を目指せば、予算の少なさが裏目に出て「貧相な安物」に成り下がってしまう。しかし、泉谷や土方たちは違った。「ハリボテをハリボテのまま、堂々と画面に出しちゃおう!」リアリティを出そうなんて、端っから思わない。この開き直りこそが、逆に映画に奇妙なポップさと異様なリズムをもたらす。『特攻任侠自衛隊』やその周辺作品に見られるこの「安っぽさを超えた先のストリート感」は、ハリウッドの億万長者たちが束になってかかっても作れない、真のヌーヴェルヴァーグであったのだ。
第3章:湘南電車と寿司とピストル —— 映画史に刻まれる「名場面」の数々映画とは、完璧な脚本や整った演技だけで構成されるものではない。観客の脳裏に焼きついて一生離れない「異常な1カット」が存在するかどうかだ。その意味において、『特攻任侠自衛隊』およびその同志たちの作品には、狂った名場面が幾重にも仕掛けられている。泉谷しげるが絶賛してやまない『特攻任侠自衛隊』の伝説的シーンがある。映画評論家の佐藤重臣が、「なぜか寿司を食いながら、ピストルを撃ちまくる」という脈絡を超絶した狂気! そして、それに続いて唐突に挿入される「湘南電車」のショット!
「あそこは大笑いした! とっても感動したよ!」と泉谷が叫ぶように、理屈やストーリーの文脈を完膚なきまでに破壊した先に現れる「謎の可笑しさ」。 あるいは、石井聰亙作品における「氷に砂糖をぶっかけてガリガリ食うシーン」や、「マントを羽織ったヘタレのヘル兄ちゃんを真上から捉えた神構図」。彼らの映画には、洗練された映画文法を無視したからこそ生まれる「奇蹟の瞬間」が宿っている。 劇中のベッドシーンにおいて、一般的な映画が「紗(フィルター)」をかけて雰囲気を作ろうとするところを、彼らは太陽光線のメーターをギリギリまで上げて自然光だけで撮りきる。
「将棋の駒でもレンズの前に立てとくか? ワッハッハ!」という土方のジョークに象徴されるように、技術の貧困をハッタリと現場の盛り上がりで突破していくアナーキーなスタイル。これこそが、彼らの映画が公開から何年経っても毎月どこかの名画座で上映され続け、客を呼び続けた最大の理由なのだ。第4章:インテリ・コンプレックスの解剖と「東京育ち」の無敵感座談会のクライマックス、論理と爆破が交錯する最も熱い火花が散ったのが「インテリ・コンプレックス」を巡る議論である。石井聰亙の作品などにチラつく、どこか繊細で「受験生の持つ苦しみ」や「社会の矛盾」を描こうとする意識。
それに対して、泉谷しげるが鋭く、そして愛を込めてツッコミを入れる。 「オレはヤクザ映画みたいなバカな映画も作ってるけど、受験生の持つ苦しみも描いとかなきゃ、せっかく大学に入ったオレの意味がない……なんてことをコイツ(石井)は思ってんだろ!」この指摘に、土方鉄人が「コノヤローッ!!」とテーブルをダーンと叩きつけ、全員が跳び上がる! 泉谷が椅子の上に飛び乗って「先生、先生、ここはひとつお腹立ちでしょうが(笑)」と宥めるコメディ映画のようなやり取り。ここで土方鉄人が放った一言は、日本の文化論としても極めて深い真実を突いている。
「俺たちにインテリ・コンプレックスが無いのは、東京育ちだからなんだよ。伝統も芸術も『それ、な〜に?』ってのがある。歌舞伎の玉三郎がいくら素敵だって言ったってさ、家帰りゃ女とヤッてんだろーって、そういうあざとい目で見ちゃう。だからインテリ・コンプレックスもクソもねェーンだよ!」地方から上京してきた若者が抱く「東京への憧れ」や「高尚な芸術への劣等感」を、生まれながらの東京市井の人間は「ハメてくださいよ、みたいな格好しやがって」と鼻で笑い飛ばす。 この「下品なまでのフラットさ」「権威に対する徹底した無頓着さ」こそが、騒動社と泉谷組を突き動かすエンジンであった。
彼らにとって、映画とは高尚な「芸術」ではなく、祭りの夜に爆竹を鳴らして警察に追いかけられるような「最高の悪ふざけ」だったのである。第5章:大作病の丹波哲郎を撃て! 「映画は上映してこそ映画になる」当時のメジャー映画界に対する彼らの怒りと嘲笑は、容赦がない。 「大作映画を作りました」と言いながら、実際には「スターを何人並べたか」「ギャラにいくら払ったか」しか誇るものがない日本映画。金を使っているくせに、画面からは金がかかっているように見えないという本末転倒。
『総長の首』といったメジャーの作品に対して、「大作病にとりつかれてアクションしていない」「民主主義のルールに則って尺をストップウォッチで計ったように綺麗に三分等しているだけ」と一刀両断する。「森下愛子が何のために出てきたんだかわかりゃしねえ」「丹波哲郎が易者で出てきて『西!』って言うだけ(笑)」。彼らが目指したのは、そんな「死んだ映画」ではなく、「現場の人間が面白がって作った、生きている映画」だ。 撮影現場で監督が「俺が俺が」と主張し、役者やスタッフが勝手にアイデアを出し合い、カオスの中で熱量が膨れ上がっていく。 プロデューサーの飯島洋一は言う。
「映画ってのは上映して初めて映画になる。そうでなかったら、四角い箱に入ったただのテープ(フィルム)だ」。大手映画会社のように「盆と正月だけ客を呼べばいい」という姿勢を突っぱね、自分たちの映画を愛してくれる客を自分たちの手で掴み取る。映画館に、アングラ劇場に、大学の教室にフィルムを担ぎ込んで上映し続ける。この「上映運動」としての逞しさこそが、彼らを単なる「アマチュアの映画青年」から「時代の切り込み隊長」へと押し上げたのだ。終章:爆発の残響 —— 80年代ニューアクションの原点として『特攻任侠自衛隊』という映画は、単なる1977年の徒花ではない。
それは、80年代に向かって日本の映画シーンが劇的に変貌を遂げていく過程で打ち上げられた、最も威勢のいい花火であった。土方鉄人・飯島洋一(騒動社)の、泥臭くも圧倒的なエンターテインメントへの執着。石井聰亙(狂映舎)の、後に『狂い咲きサンダーロード』へと結実する高圧爆音のアナーキズム。泉谷しげるの、音楽・映像・絵画・表現のすべてを横断するバイタリティ。彼らは「ザ・ウォリアーズ(噛みつき屋)」であり、「ザ・猪木」であり、熊を素手で倒すウィリー・ウィリアムスであった。
「映画で飯を食っていく」ということの過酷さを知り破しながらも、「家でゴロゴロしてるより、外で撮影やってる方が絶対に面白い」という単純にして最強の心理でカメラを回し続けた。もし、あなたが今、整えられ、計算され、誰も傷つけないように作られた退屈な現代の映画に物足りなさを感じているのなら、ぜひ思い出してほしい。
1977年の東京で、アルミ箔のロボットを笑い飛ばし、湘南電車のカットに大爆笑し、安物の銃をバチバチとぶっ放しながら、映画の未来を力ずくでこじ開けようとした男たちがいたことを。「自主映画なんか知らねェーぜ!!」
その絶叫は、今なお私たちの胸の中で、熱い爆破音を立てて鳴り響いている!