ハードポルノ 本番の女 (1982) Jo Ichimura (LD-RIP)
每一次紀念,都是對歷史的一次救贖。
熱狂と忘却の交差点、あるいは1980年代初頭という巨大な地殻変動の最中にあって、大蔵映画が1982年4月に放った『ハードポルノ 本番の女』という奇跡的な一篇は、世界的なポルノグラフィの変革期における和製エロティシズムの極点であり、同時に日米の性愛文化が火花を散らしたハイブリッド・シネマの最高峰である。本作は、70年代から連綿と続くフィルム映画の劇場公開スタイルが、家庭用ビデオカセットという新たなメディアの台頭によってドラスティックな終焉と新生へと向かう、まさにその過渡期に誕生した。
監督の市村譲は、当時のヴィンテージ・アダルトシーンが内包していた生々しいハードコアの衝動を、日本映画特有の土着的なペーソスと、洋物ポルノが持つ圧倒的な肉体の躍動感へと見事に昇華させている。本作を論じることは、単なる一本のピンク映画のサルベージに留まらない。それは、クリッシー・ボーシャン(Chrissie Beauchamp)という世界的なアイコンが「ジェニファ・ラッセル」という変名を通じて日本のスクリーンに刻みつけた、あまりにも鮮烈で、あまりにも過激な、性と文化のクロスオーバーの真実を完全に解き明かす試みなのである。
1. 狂騒のペントハウスから黄金の極東へ――物語の骨格と二面性のドラマ物語は、サンフランシスコの眩い光の中から幕を開ける。金髪美人でチャキチャキのヤンキー娘、キャロル(ジェニファ・ラッセル)は、アメリカでペントハウスに匹敵する最高峰のポルノ雑誌『カントハウス』のカメラマン兼モデルを務める、見事な魅惑とロケットオッパイを持つグラマーな女である。彼女は、渡米していた建築デザイナーの川辺五郎(国分二郎)と知り合い、ホテルで一夜をともにする。五郎が持つ並外れた「逸物」に、キャロルはその青い目をこれ以上ないほどに輝かせ、再会を約束して別れる。
この冒頭のシークエンスからして、市村譲監督の演出は冴え渡っている。アメリカ的な開放感と、そこに放り込まれた日本男児の肉体的なポテンシャルが、極めてスピーディーかつ情熱的に提示される。折しも『カントハウス』では、海外展開を目指して日本支社設立の準備が進められていた。キャロルはニュー企画として、日本情緒豊かな日本人によるハードコアポルノの制作を立案する。それはビジネスの枠を超えた、あの五郎との再会を期待する彼女の熱い私情と欲情が混ざり合った要望でもあった。来日したキャロルは、すぐさま五郎の設計事務所を訪れる。
同僚たちの羨望と嫉妬の眼差しを浴びながら、五郎の腕を掴んで堂々と東京の街へと繰り出すキャロル。この異国情緒とエゴイズムの衝突が、作品に独特のドライブ感を与えている。しかし、二人の情事の影には、常に不穏な視線が存在する。彼らをじっと見つめている高木(西村健二)の存在、そしてハンドルを握る五郎のファスナーに容赦なく手をかけてくるキャロルの大胆不敵なエロティシズム。公園に車を乗り入れた五郎は、抑えきれない欲情のままにキャロルを激しく抱きしめる。
このカーセックスの緊迫感と野外ならではの解放感は、監督助手を務めた渡辺努(『猟奇体験・夢性』『美女 猟色好奇心』などの名匠)のフェティッシュな手腕が遺憾なく発揮された瞬間であろう。キャロルから来日の本当の目的――ハードコアポルノのモデルになってほしいという依頼――を告げられた五郎は、いささか躊躇する。
1982年当時の日本国内において、本番行為をフィルムに収めることは法的なタブーであり、破滅を意味していたからだ。しかし、「国内販売ではなく、アメリカ本国での流通である」というキャロルの言葉に、五郎は思い切ってこの危険な賭けを引き受ける。五郎は早速、友人の藤本を口説き落とし、藤本のガールフレンドであるさゆり(岡本恵子)をモデル相手に仕立て上げることに成功する。こうして、東京の片隅で、合法と違法の狭間をすり抜ける「和製ハードコア」の極秘撮影プロジェクトが始動する。その夜、久しぶりに五郎は心ゆくまでキャロルを抱く。
幾度も激しいアクメに達し、潮を吹くキャロルの肉体は、まさに生命力の爆発そのものである。だが、翌朝、物語は一気にサスペンスフルなコメディへと舵を切る。五郎の妻(井上まり子)は、朝帰りの五郎の体に、爽やかな香りのするオーデコロンを容赦なく吹きつけるのだ。「だって貴方の体、変な匂いがするんだもの」という妻の言葉に、内心ギクッとなる五郎。実は、この妻は五郎の設計会社に出資しているパトロンの令嬢であり、五郎にとっては経済的な生殺与奪の権を握る絶対的な存在であった。
この「外人の濃厚な体臭と愛液の匂い」を、日本の家父長制の裏返しである「パトロン妻の嗅覚」が追い詰めていく構図は、極めてモダンな喜劇的サスペンスとして機能している。ホテルで顔合わせのために集まる四人――キャロル、五郎、藤本、さゆり。カメラを構えるはずのキャロルだったが、撮影が始まると同時に、熱気に当てられたかのように自らも裸になっていく。気がつけば、演出と実演の境界線は崩壊し、四人は乱交もどきの濃厚な打ち合わせ、いや、狂乱のセックスへと雪崩れ込んでいく。しかし、五郎のプロ意識(あるいは保身の知恵)は凄まじい。
事後、妻に匂いを悟られぬよう、シャワーに入ることだけは絶対に忘れなかった。それでも、本能的な嗅覚を持つ妻の追及の手は緩まない。自宅に帰るや否や、まるで猟犬のように五郎の体中を嗅ぎ回る妻。ヤバいと感じた五郎には、もはや妙案も浮かばない。そんな家庭内の危機を余所に、野外での屋外ハードコアポルノ撮影は過激に進行していく。燃え上がった五郎とキャロルは、大自然の光の中で文字通りの「本番」を重ねていく。
五郎は妻の鼻を欺くため、体中にウィスキーを浴びたり、あろうことか『ジャイアントロボ』の人形をポケットに忍ばせてそのプラスチック臭で誤魔化そうと、涙ぐましい工夫と奮闘を試みる。この『ジャイアントロボ』というポップカルチャーの意表を突いた挿入は、市村譲監督の持つアヴァンギャルドなユーモアセンスの極みであり、シリアスなポルノ描写に奇妙な異化効果をもたらしている。しかし、破滅の瞬間は訪れる。ある夜、とうとう五郎は妻に撮影現場、あるいは愛巣を取り押さえられてしまうのだ。「あなた浮気してるわね。それも外人の女ね。絶対に許せないわ!
」と金切り声を上げる妻に対し、五郎は必死の弁明を試みる。「これは、駐在の注文でいい客なんだ! やたら体臭が強くて、話をしてるだけで、その、匂いが移ってしまったんだ!」というあまりにも苦しい言い訳。妻は冷酷に言い放つ。「嘘、隠したってちゃんと知ってるワ。貴男がその気なら、月末の手形が落ちなくても知りませんからね!」不渡り、そして会社の倒産という現実的な地獄に困り果てた五郎は、キャロルに涙ながらに相談する。すると、アメリカ的な個人主義と性の自由を謳歌するキャロルは、実にあっけらかんと提案するのだ。「私が奥様に説明して上げます。
旦那様と私はただのSEXフレンドで、愛人ではありません、と。」慌てふためく五郎。「日本はまだそこまで進んでいないよ!」と叫ぶ彼に対し、キャロルはポルノ雑誌のトップモデルらしい至言を突きつける。「レストランで食事をします。ホテルでSEXします。これ、同じですネ。」文化の断絶に頭を抱える五郎。「そんなこと言ったって君……じゃあ君は、会社(オフィス)で裸になれるかね?」と反論すると、キャロルは不敵に微笑む。「私、歩けます。でも、いくらくれますか?
」このセリフの応酬こそ、本作が単なるポルノ映画を超えて、当時の日米の経済的・文化的な摩擦を鋭く風刺した快作であることの証明だ。しかたなく会社の資本的な事情をキャロルに説明し、自分は会社のトップではなく、しがないサラリーマン社員の一人に過ぎないのだと白状する五郎。そこから物語は、悶え狂う本番セックス、夫の浮気と妻の浮気が複雑に交錯する、ヤンキー娘が巻き起こす前代未聞の「チン騒動」へと猛烈なスピードで爆裂していく。
2. 和製と洋物のクロスオーバー――大蔵映画という秘境に咲いた過激なハイブリッド本作『ハードポルノ 本番の女』のポルノ映画史における最大の功績は、クリスチナ・リンドバーグが日本を席捲した伝説的作『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』のような、和製エロティシズムと洋物ハードコアのクロスオーバーを、大蔵映画という独自のインディペンデントな土壌で見事に結実させた点にある。当時、日本の成人映画界は、東映ポルノの泥臭くも暴力的なエネルギーと、にっかつロマンポルノの洗練された文芸路線が二大巨頭として君臨していた。
しかし、大蔵映画もまた、それらに負けず劣らずの牙城を築いていた。大蔵映画が持っていた独自の武器とは、メジャー資本が躊躇するような極端なフェティシズムや、海外のポルノスターを大胆に招聘する、フットワークの軽さとアナーキーな企画力であった。本作には、単なるエロティシズムに留まらず、後年の映画『ガン・ホー』のような、アメリカ側の視点から見た過剰で奇妙な日本風刺コメディの香りが濃厚に漂っている。劇中で展開される、ファック!ファック!又、ファック!という怒涛のセックス描写の連続は、抑えきれない欲情のしたたる愛液とともに、観客の視覚を容赦なくレイプする。
五郎の「和製」の肉体と、キャロルの「洋物」の肉体がぶつかり合う時、そこには単なる人種の交わりを超えた、映画というメディアそのものが持つダイナミズムが立ち現れる。市村譲監督は、日本のジメジメとした湿地帯のような性愛観に、カリフォルニアの乾燥した太陽の光を無理やり注ぎ込むことで、かつてないほどに乾いた、しかしそれゆえに狂おしいほどに情熱的なハードコア空間を作り上げることに成功したのである。
3. ジェニファ・ラッセルという幻影――クリッシー・ボーシャン、天然美の極致本作の絶対的な核心であり、全編を通じてスクリーンを支配し続ける存在、それが主演のジェニファ・ラッセルである。彼女の肉体は、のちのポルノ界の伝説となるトレイシー・ローズを激しく彷彿とさせる、圧倒的なボリュームのロケットオッパイを持ち、乳輪が大きめで形も完璧という、当時の男たちの妄想をそのまま形にしたようなプロポーションであった。しかし、この「ジェニファ・ラッセル」というクレジットの裏には、映画史の闇に埋もれかけた巨大な真実が隠されている。
彼女の正体は、1980年代初頭のヴィンテージ・アダルトシーンにおいて彗星のごとく現れ、短い活動期間ながらカルト的な人気を誇ったイギリス出身のポルノ女優、クリッシー・ボーシャン(Chrissie Beauchamp)に他ならない。
1970年代末から1980年代前半にかけて、世界の成人向けエンターテインメント業界は歴史上最も劇的な転換期を迎えていた。それまで主流だった劇場用のフィルムから、家庭用ビデオカセット(VHS/ベータ)への急速な移行である。このメディアの過渡期である1981年から1984年という極めて短い期間に、彼女は鮮烈な記憶を焼き付けた。クリッシー・ボーシャンが体現していたのは、整形手術や過度な肉体改造、シリコンインプラントが一般化する前の時代における「オールナチュラル(自然体)」な美しさの極致であった。
豊かなブルネットの髪(本作ではブロンドに染めるかウィッグを用いているが、その毛根に宿る野生味は隠せない)、息をのむほどに引き締まった細身のスレンダーなウエスト、平らな腹部、そして何よりも、カメラの向こう側で自身が性愛を心から楽しんでいることを伝える、眩しく無邪気な笑顔は、観る者を一瞬で虜にする。長年、ポルノ業界におけるアーカイブの脆弱さや、ヨーロッパとアメリカ、そしてアジアの市場間で交錯する情報の錯綜により、彼女のバイオグラフィは多くの誤情報にまみれてきた。
90年代のデータベースでは、彼女をガブリエル・ベハール(『Up Up and Away』の主演女優)と混同したり、ハワイで撮影されたセックステスト映画『Heartthrobs』への出演を誤記したりしていたが、近年のコアなコレクターたちの執念深い検証により、彼女が実際に使用した名義は、本名のクリッシー・ボーシャン、ボンデージ作品での「ホリー・サマーズ(Holly Summers)」、そしてこの日本配給作などで見られる「ジェニファー・ラッセル(Jennifer Russell)」の3つに集約されることが証明されている。
彼女の実際の出演作は世界的に見ても10本未満という極めて限定的なものであった。多作ではないにもかかわらず、なぜ彼女が伝説として語り継がれるのか。それは、本作『ハードポルノ 本番の女』を含め、彼女が出演した一本一本の作品において、他の女優には絶対に真似できない圧倒的なクオリティと、純粋なエロティシズムの多幸感を提示していたからである。
4. 抑圧と解放のダイナミズム――英国の検閲から極東のハードコアへクリッシー・ボーシャンの足跡を正しく理解するためには、彼女が活動した1980年代初頭におけるイギリスおよび大陸ヨーロッパの法律、そして成人向けメディアの構造的特異性を知る必要がある。当時のイギリスは、全英映像等級審査機構(BBFC)や1959年猥褻出版物法により、国内での直接的な性器の挿入描写(ハードコア)を含む映像を製造・流通させることが完全に不可能であった。
そのため、イギリス人女優としての彼女は、国内では『Lovebirds』などの洗練されたソフトコアグラビア(有名なスチュワーデス制服のロールプレイなど)で「お行儀の良いエロティシズム」を演じるしかなかった。しかし、彼女の内に秘められた旺盛な性への探求心は、その抑圧を飛び越え、大陸ヨーロッパ(西ドイツのゴールデン・ガールズ・レーベルやスウェーデンのスウェーディッシュ・エロティカ)へと彼女を向かわせ、そしてついには遥か極東の地・日本において大蔵映画の『ハードポルノ 本番の女』という、ハードコアの解放区へと彼女を導いたのである。
本作において、彼女が見せるパフォーマンスはまさに貪欲そのものである。五郎との絡みで見せる、激しいピストン運動に応じる肉体のキレ、そして何よりも、マニアの間で神格化されている彼女の最大の特徴――少女のようなあどけない顔立ちから発せられる、幼児のように高く少し舌足らずな「ベビーボイス(肉声)」と、それとは完全に相反する、アナルセックスや過激なフェティシズムをも嬉々として受け入れる熟練した性愛テクニックの「極端なギャップ」が、この映画のクオリティを単なるピンク映画からカルト的芸術へと押し上げている。
映画の中で、彼女は『Hustler』1982年2月号のセンターフォールドで見せた「エスキモー・ガールのノーラ」のような、あるいは『Velvet Talks』1981年12月号の「初めての経験」で見せた純潔な少女のようなピュアな眼差しを時折見せながらも、ひとたび本番セックスが始まれば、底抜けの陽気さと溢れる生命力(vivacious good humor)で五郎の逸物を迎え入れる。そこにはビジネスとして割り切った冷淡な演技や、過剰に誇張された嘘の快楽は一切ない。
彼女がセックスシーンで見せる笑顔は、その瞬間における性的な興奮と、生きていることへの喜びが内側から溢れ出たような、眩しいばかりの肯定感に満ちている。5. 結論――デジタルアーカイブの海に不滅の輝きを放つ傑作『ハードポルノ 本番の女』は、1980年代前半という「ポルノの黄金時代」の最後に残された、最も純粋な輝きそのものである。
1980年代半ば以降、アダルト業界にはシリコンインプラントによる豊胸や不自然な整形、金髪のブリーチといった「作られたサイボーグ的な美しさ」が急速に流入し、業界の標準となっていく。しかし、1982年のこの映画におけるジェニファ・ラッセル=クリッシー・ボーシャンは、その商業主義の波に汚される直前の、最も美しい「天然の肉体」を完全に維持している。
2000年代以降、インターネット上において、世界中の熱狂的なヴィンテージ・ポルノ・コレクターたち(通称「RodniScan」ら)の草の根のアーカイブ活動や、Yahoo!ファングループにおける執念深い検証により、彼女の散逸しかけていたグラビアや映像の断片がデジタル化され、世界中で再評価が進んだ。その文脈において、日本で作られたこの大蔵映画の一篇は、彼女の全盛期の肉体美と、当時の日本の映画人たちの情熱が奇跡的に融合した、破棄されるべきではない貴重な文化的サンプルとして君臨している。
表題も、チャプターも、段落の明確な区切りすらも飛び越えて、ただただ網膜に焼き付くのは、ウィスキーの匂いをさせながらジャイアントロボをポケットに忍ばせて奮闘する日本男児の悲哀と、それを包み込むヤンキー娘の圧倒的な母性と欲情のスペクタクルである。クリッシー・ボーシャンは1984年に業界を完全に去り、その後の人生は一般社会の静寂の中に隠された。
しかし、市村譲が監督したこの60分間のフィルム、この『ハードポルノ 本番の女』という時空のカプセルの中で、彼女は今もなお、2026年の現代に至るまで、全盛期の瑞々しい肉体と世界を明るく照らすような極上の笑顔で、観る者すべての欲情を爆裂させ、狂乱の渦へと誘い続けているのである。これぞ映画であり、これぞ本番であり、これぞ不滅のエロティシズムの勝利なのだ。