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[Eng Ver.] Yoshifumi Kondō's Animation (1995)
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[Eng Ver.] Yoshifumi Kondō's Animation (1995)

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[Eng Ver.] Yoshifumi Kondō's Animation (1995)

Yoshifumi Kondō (近藤 喜文, Kondō Yoshifumi, March 31, 1950 – January 21, 1998) was a Japanese animator who worked for Studio Ghibli in his last years. He was born in Gosen, Niigata Prefecture, Japan. He worked as an animation director on Anne of Green Gables, Sherlock Hound, Kiki's Delivery Service, Only Yesterday and Princess Mononoke. Kondō directed the animated film Whisper of the Heart, and was expected to become one of the top directors at Studio Ghibli, alongside Hayao Miyazaki and Isao Takahata, and to become their eventual successor.Kondō died of aortic dissection – alternately aneurysm – in 1998.Brief historyKondō was born in Gosen, Niigata Prefecture, Japan on March 31, 1950. He entered Niigata Prefectural Muramatsu High School in April, 1965, where he was a member of the art club. His senpai was the future manga artist Kimio Yanagisawa. In April, 1968, he moved to Tokyo after graduating from high school, where he entered Tokyo Design College's animation department. On October 1, 1968, he began working at A Production (formerly Shin'ei Dōga), participating in the production of such shows as Kyojin no Hoshi and Lupin III. Kondo moved to Nippon Animation in June 1978, participating in the production of such shows as Future Boy Conan and Anne of Green Gables.In 1978, he co-authored a textbook for beginning animators titled Animation Book (アニメーションの本 Animēshon no Hon). He moved to Telecom Animation Film on December 16, 1980, where he worked as the character designer for Sherlock Hound. On March 16, 1985, Kondō resigned from his position at Telecom Animation Film, and was hospitalized from June through August for a type of pneumonia (自然気胸 shizen kikyō). He became a contract worker for Nippon Animation afterwards and moved to Studio Ghibli in January, 1987. In 1995, he made his directorial debut with the film Whisper of the Heart. On January 21, 1998, he died suddenly of an aortic dissection in the Tachikawa City Hospital in Tokyo at age 47.経歴1950年3月31日、新潟県五泉市に生まれる。

1965年4月、新潟県立村松高等学校に入学、美術部に所属する。先輩には漫画家の柳沢きみおがいた。

1968年3月、高校を卒業。同年4月、新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学、熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける。大塚に懇願し、同年10月1日、Aプロダクション(現:シンエイ動画)に入社(半期下は本多敏行、青木雄三)、『巨人の星』、『ルパン三世』、『ど根性ガエル』などに参加した。

1974年12月、Aプロダクションの同僚である山浦浩子と結婚。

1976年9月9日、Aプロダクションがシンエイ動画へと改組、引き続き同社に所属する。同年、日本共産党に入党。居住地の住民運動に尽力する。

1977年7月、長男が生まれる。

1978年6月20日、シンエイ動画を退社。同年、日本アニメーションに契約入社。『未来少年コナン』(監督:宮崎駿)、『赤毛のアン』(監督:高畑勲)などに参加した。同年、新人養成テキストブック「アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際」を共著で出版。

1980年、日本アニメーションを退社。同年12月16日、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。『名探偵ホームズ』などを担当した。

1984年9月より、日米合作劇場用アニメーション『NEMO/ニモ』のパイロット・フィルムを友永和秀と共同で監督にあたり、12月に完成させる。

1985年3月16日、テレコム・アニメーションフィルムを退社してフリーに。同年6月から8月まで自然気胸で入院した。

1986年1月頃、日本アニメーションに契約入社。

1987年1月、日本アニメーションを退社。同年2月1日、『火垂るの墓』準備のため、スタジオジブリに入る。引き続き宮崎や高畑の監督作品で作画スタッフとして活動する。

1989年9月11日、スタジオジブリに入社。

1995年、『耳をすませば』で監督デビュー。結果的に生涯唯一の監督作となった。

1997年、作画監督を務めた『もののけ姫』が最後の参加作品となった。暮れに解離性大動脈瘤で倒れ入院。

1998年1月21日午前4時25分、死去。享年47。葬儀の出棺の際には『耳をすませば』の主題歌である「カントリー・ロード」が流された。次回作には灰谷健次郎の小説『天の瞳』のような作品を構想していたという。

2014年7月4日 - 8月31日、新潟県立万代島美術館にて、「新潟が生んだジブリの動画家 近藤喜文展」が開催される。その後も副題を変えて各地で開催されている。宮崎駿・高畑勲との関係前記のように、近藤は1970年代以降の宮崎駿や高畑勲の作品を作画面で支えた。近藤は両名から高く評価されており、高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』をそれぞれ同時に制作した時期に、両者の間で近藤の争奪戦が起こった。

高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった)。高畑は後年の回想の中で、「近ちゃんを獲得することが私の最優先、いや絶対的な課題だった」と述べ、それ以外のスタッフについては積極的勧誘をしなかったと記している。米を茶碗に盛り付ける際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作など、高畑アニメが追求するリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。

その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。それ以前から近藤が演出をするという宮崎との約束があったため、宮崎が企画を持ってきた『耳をすませば』の監督を任される。同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。近藤の没後、このことについて宮崎は「自分が終わりを渡してしまったようなもの」と語っている。一方、鈴木敏夫は2018年のインタビューで、生前の近藤から「高畑さんは僕を殺そうとした。

高畑さんのことを考えると、いまだに体が震える」という言葉を涙とともに聞いたと述べている。また、鈴木によると近藤の葬儀の際、火葬場で関係者が待つ間、あるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのは、パクさん(高畑の愛称)よね」というつぶやきを漏らすと、間を置いて高畑は無言でうなずいたという。表現自分の作ったキャラクターならば、斜め仰向きの顔などどんなにむずかしいアングルでも感じよく描いてみせた。普通の口まわりの表現でもあごや頬の筋肉や骨を上手く使って自由に動かして表現を作った。

口の線もただの線でなく線に表情をもたせながら、俯瞰か仰角かで基本の湾曲を定めつねに立体を意識していた。しかしその意識の仕方は、顔を石膏のような固い立体として律儀に捉えるのとは違い、キャラクターを柔軟な肉でできた生身の存在として感じ、線と動きでその「実感を出す」ためだった。整理された線の達人であり洗練されたデザインセンスの持ち主であった。それは『おもひでぽろぽろ』の回想編のマンガキャラクターのアレンジなどに見られる。『赤毛のアン』では「キャラクターアニメーション」(人物の性格・ひととなりの活写)を見事に表現した。人物愛称は近ちゃん(こんちゃん)。

こんどうきぶんとも。「こんな絵を描けたら」として、ノーマン・ロックウェル、林明子、鏑木清方らを挙げている。いずれも、市井を生きる人々の日常の姿が、静かに息づく世界を描いた画家である。好きな漫画家には高野文子を挙げている。また、『Dr.スランプ』を連載していたころの鳥山明の影響も受けていたようで、それをうかがわせるイメージボードも残されている。

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