マギーへの伝言 (1985) Banmei Takahashi
極權主義的可怕,在於它讓謊言變成日常。
序説:雑音の海に沈む「声」を呼び覚ます――高橋伴明が1985年に撃ち込んだ、ある“黙示録”映画とは、網膜に焼き付く光の軌跡であると同時に、鼓膜を震わせる「時代の呼吸」そのものである。しかし、1985年に高橋伴明が世に放った『マギーへの伝言』という映画を前にした時、我々はまず圧倒的なディスコミュニケーションの荒野に放り出されることになる。本作を鑑賞する者が一様に直面する最大の障壁、それは「セリフが絶望的に聴き取れない」という、およそ商業映画の体裁を疑いたくなるような劣悪極まる音響設計、録音状態である。
テレビのボリュームを50、いや60にまで跳ね上げてようやくキャラクターの呟きが輪郭を結んだかと思えば、今度はジョー山中による豊潤かつ過剰なBGMや、つんざくような荒々しい環境音が爆音となって鼓膜を蹂躙する。現代の日本映画においても「邦画のセリフが聞き取りにくい」という批判は絶えないが、本作のそれは技術的未熟や怠慢という次元を超え、一種の表現主義的狂気、あるいは世界に対する絶望的な「拒絶」のようにすら響く。言葉は意味をなさず、ただの音塊として空間に霧散していく。だが、この「聴き取れなさ」こそが、本作の核心へと至る補助線なのだ。
なぜなら、ここに描かれているのは、言葉による融和を徹底的に拒まれた者たちの、肉体と魂の文字通り「血みどろの交感」だからである。
1982年の『TATTOO<刺青>あり』で時代の寵児となり、ピンク映画の旗手から一般映画の前線へと躍り出た高橋伴明。彼が関根恵子(高橋惠子)との結婚を経て、ある種の「円熟」や「平穏」に逃げ込んだという安易な批評は、本作の持つ獰猛な牙によって完全に打ち砕かれる。本作は、謎に包まれたビデオレーベル「ビクトリービデオ」の黎明期、あるいはオリジナル・ビデオ(OV)前夜の混沌とした熱量のなかで、奈美悦子主演の『青い鳥どこに』(1984年/瀬川昌治監督)などと並び、劇場公開の枠組みすら超えた「情念の密輸品」として企図された。キャストを見よ。
服部まこ、木之元亮、高瀬春奈、下元史朗、そして画面を異形のオーラで支配する内田裕也。このあまりにも歪で、それでいて強烈な磁場を放つ役者陣が、ジョー山中の哀切極まる音楽と、三好和宏の陰惨なまでに美しい撮影・照明のなかで狂い咲く。本作は、混血という宿命を背負った一人の女性の悲哀を、ドキュメンタリー的な冷徹さと、劇画的な熱量で描き切った、1980年代日本映画の隠れた「爆裂弾」なのである。第1章:夜の胚胎と狂おしき肉体の儀式――トオルとマミ、あるいは「不完全な言葉」の止宿映画は、夜の闇に沈む薄暗いバーの喧騒から幕を開ける。
流れる音楽に合わせ、バイクのペダルに足をかけながら無骨にリズムを刻む男――トオル(木之元亮)。『太陽にほえろ!』のロッキー刑事、あるいは後年の『ウルトラマンダイナ』で見せるあの熱血漢の隊長役としてのパブリック・イメージを脱ぎ捨て、泥臭い無頼の生を生きる男の佇まいがそこにはある。彼の視線の先で歌うのは、胸元が大胆に開き、二の腕を剥き出しにしたセクシーな黒い衣装に身を包んだマミ(服部まこ)だ。彼女が絞り出す英語の歌声は、お世辞にも流暢とは言えず、どこか拙く、危うい。
しかし、その洗練を欠いたジャズボーカルの、地を這うような生々しさこそが、聴き手の胸をざわつかせる。客席の片隅、うつむき加減でその歌声に耳を傾ける一人の男がいる。サングラスの奥の瞳を隠し、ただならぬ異様な存在感を放つその男――内田裕也。彼が画面に映り込んだ瞬間、映画の空気は一変する。マミの歌声から聴き取れるのは、ほとんど「ウォ~オオオオ」という、言葉以前の、呪術的な叫びだけだ。この冒頭の時点で、観客はB級映画特有の、あるいは偉大なる駄作の予感に似た、ヒリついた映画的興奮に身を焦がすことになる。ライブの帰り道。
深夜の静寂のなか、バイクを押しながら歩くトオルとマミのファースト・コンタクトは、互いの孤独を値踏みするような、不器用な対話で始まる。「(電車)最終だな。間に合うかな。電車より早いぞ」マミは何も答えない。「秘密主義か」「そんなんじゃないわよ」「俺ん家泊ってけよ。何もしないから」「男の人って、みんなそう言うのね」「何もしないよ、俺は」この、昭和のトレンディドラマの悪質なパロディのような、あるいは場末のナンパのようなやり取りの果てに、二人はトオルの狭苦しいアパートのベッドの上に横たわる。何かが起こることを予感させながらも、その夜は何も起きない。
沈黙のなか、マミはぽつりと呟く。「電話がなかったから、女一人でここまでやってこれたんだと思う」このセリフは極めて重要である。通信技術がまだ個人の肉体を完全に縛り付ける前、1985年という時代において、「電話がない」ということは、他者からの非対称な介入を拒絶し、自己の尊厳を孤独のなかに死守するための唯一の盾であったのだ。朝が来れば、二人は再び一台のバイクに二人乗り(2ケツ)し、都市の隙間を疾走する。再び訪れるライブのステージで、マミは叫ぶように歌う。
I WANNA BE FREE, I WANNA HOLD MY FREEDOM「FREEDOM(自由)」という単語を、強迫観念のように連呼するマミ。そのリズムに合わせ、無言でボトルを拭くバーテンダー(下元史朗)。客席には、主を失ったキープボトルだけが虚しく佇んでいる。ステージを終え、地下鉄の電光看板のネオンが怪しく明滅する路地裏を一人歩くマミ。待ち合わせのクラクションが夜を切り裂き、そこには再び、バイクに跨ったトオルが待っている。ここから、映画は一気に肉体の狂宴へと雪崩れ込む。薄暗いトオルの部屋、ベッドの上で二人は激しく貪り合う。
互いの唇を吸い合い、赫いシャツを身にまとったマミの胸を、トオルは服の上から、そして衣服の奥へと容赦なく手を滑り込ませ、やがて彼女の秘所へと指を伸ばしていく。「だめ…約束やぶっちゃう」「そうだな。……突然ですが、マミ、一緒になんとかなるか?」「あたし、男の人と一緒に住んだことないの」涙ぐむマミ。彼女の肉体は、ただ快楽を求めているのではない。己の存在そのものを承認してくれる他者を、渇望しているのだ。「私、あいの子(混血児)だよ」という、宿命的な告白。それに対し、トオルは一切の躊躇なく「関係ないよ!」と言い放つ。
その言葉に救われたかのように、マミは「無事でいて」と言い残し、布団のなかへと潜り込んでいく。トオルの股間に顔を埋め、熱心に奉仕するマミ。髭面の木之元亮は、無言のまま、快感と歓喜に打ち震える。その生々しいクローズアップ。「いけない?」と上目遣いで問うマミに対し、トオルは野生の衝動を爆発させ、彼女の衣服を強引にはぎ取る。わずか数秒のあいだに全裸にされたマミが「ダメッ・・・」と漏らす声を、毛布が覆い隠す。そこからは、毛布の蠢きと、薄暗い部屋の闇に響き渡る湿った喘ぎ声だけの世界だ。静かに、しかし狂おしいほど情念を滾らせて求め合う二人の肉体。
やがてトオルは絶頂を迎え、膣外へと射精する。「膣内(なか)で終わってもよかったのに」「仁義だから」「約束破った・・・」「悪い・・・軽蔑するか・・・?いけなかったみたいだな」「でもいい。E気持だったから」「泊まっていけよ」「だめ・・・・」この「仁義」という単語の即物的なバカバカしさと、それに続く「E気持」という、当時流行した沖田浩之のヒット曲のタイトルを捩ったような即興的セリフの奇妙な軽さ。
高橋伴明と渡辺寿による脚本は、高尚な文学性を徹底的に排除し、当時の若者たちの地べたを這うような言葉のリアリティ――あるいはその機能不全――を、見事なまでに定着させている。第2章:内田裕也という劇薬――漆黒の沈黙と、エレクトーンの鎮魂歌トオルの部屋の熱狂とは対照的に、マミの自室は誰もいない、やたらと暗く殺風景な空間として描かれる。そこに鳴り響く電話の呼び出し音。ジリリリン、ジリリリン。重苦しいスリーコールの後、受話器を取るマミ。「もしもし」。スピーカーから聞こえるのは、内田裕也のあの、低く掠れた、冷徹な声だ。「寝てたのか。後片付け終わったから。
そっちも早く荷物整理しとけよ」この男は何者なのか。マネージャーか、パトロール(庇護者)か、それとも彼女の肉体を縛る吸血鬼(ヴァンパイア)か。内田裕也という男は、セリフの端々に漂う圧倒的な暴力性と不条理さによって、物語の絶対的な「壁」として君臨する。マミは一人、エレクトーンに向かい、童謡「赤い靴(赤い靴はいた女の子)」を弾き語り始める。なぜ「赤い靴」なのか。いうまでもなく、あの歌は「異人(異国人)につれられて行っちゃった」女の子の悲劇を歌ったものだ。マミ自身の混血というルーツ、そしてこれから彼女を待ち受ける運命を予兆するかのように、切々と響く弾き語り。
その歌声(2コーラスに及ぶ贅沢な演出)にオーバーラップするように、画面は自室で一人、銃を構えるトオルのシルエットを捉える。愛と暴力、そして宿命が、エレクトーンのチープな旋律のなかで不穏に交錯していく。場面は変わり、下元史朗が寡黙に営むバー。マミは一人、酒を煽る。自室に戻り、鏡に向かって化粧を施す彼女の表情には、生気が乏しい。再び鳴り響く電話。マミはそれを徹底的に無視する。シャワーを浴び、湯上がりの濡れた身体で煙草を燻らす彼女のシルエットは、あたかも『ウルトラセブン』最終回における、モロボシ・ダンと友里アンヌの、あの悲劇的で美しい対話を想起させる。
特撮的なヒーロー性と、泥沼の現実が、高橋伴明の演出マジックによって奇妙に融解する瞬間だ。ついにマミが意を決して受話器を取る。「はい」。カットが激しく切り替わる。次の瞬間、マミは内田裕也によってベッドへと手荒に放り出され、押し倒されている。衣服はあっという間に剥ぎ取られ、全裸にされるマミ。ここにはトオルとの間にあった「仁義」も「E気持」もない。お互いに完全な無言。画面には、1980年代の粗悪なビデオテープ特有の、ザーというノイズの音だけが虚しく鳴り響いている。横たわるマミの滑らかな太ももを、内田裕也は無表情のまま、冷酷になぞる。
そして彼女の尻を撫でまわし、パンツのなかへと大きな手を割り込ませていく。内田裕也という劇薬は、画面に顔を出すだけで、その映画が持つあらゆる通俗性を排し、純粋な「悪徳とエロス」の深淵へと観客を引きずり込む。彼が体現するのは、理由なき暴力であり、マミを絡め取る「逃れられぬ現実」そのものなのだ。一方その頃、別のバーではトオルが醜く泥酔していた。ママを演じる高瀬春奈――『お葬式』(1984年/伊丹十三監督)で見せた、あのメガネっ子のエロティックな愛人役、あの満場一致で男たちを狂わせた丸いお尻の残像を宿した彼女が、「もう帰れよ」と呆れたように告げる。
トオルはうわごとのように呟く。「俺な、ひょっとして初めてプロポーズしちゃった」その言葉に、ハッとして表情を硬くするママ。カウンターの隅では、当時爆発的に流行していた任天堂の「ゲーム&ウオッチ」(ミッキーマウスのゲーム)が、ピコピコ、ピコピコと、無機質な電子音を虚しく響かせている。個人の重大な決断(プロポーズ)の重みが、電子玩具の安っぽいノイズによって完全に相対化される、この凄まじい時代感覚の切り取り方。高橋伴明の映画的センスが冴え渡る。第3章:履歴書という名の空白――境界線上の漂流者たちどこかのホテルの一室。
ベッドで目覚めたマミは、受話器が外されていた公衆電話から、トオルの部屋へとダイヤルを回す。「割と近くまで来てるんですけど、誰もいらっしゃらないんですか」「ここんところ、なぜかいつも一人だよ」半裸でベッドに横たわり、髭をなでながら答えるトオル。彼の部屋の壁には、マミの白黒のスチール写真が何枚もピンで留められている。トオルは半裸のまま、真っ赤なブーメランパンツ一丁で歯を磨きながら、その白黒写真を一枚一枚、乱暴に剥がしていく。二日酔いの激しい頭痛が、彼の脳を内側からノックしている。「また死んでる」と呟き、彼は再びベッドへと倒れ込む。
ガチャ、とドアが開き、マミが部屋に入ってくる。「また飲みすぎ?」「あ、お前さ、あれやめてくんないかな。なんとかなんですけど、なんとかでしょうかってやつ」「ごめん、でも普段から言う癖つけとかないと、人前に出たときポロっと出ちゃうもん」「そんなに警戒しないといけないわけ?」トオルは強引にキスを迫るが、マミは「だめ、二日酔いが移りそう」と身をかわす。「・・・そう」と落胆するトオル。マミは彼の背後の壁に目を留める。そこには、画鋲で無造作に留められた大量の紙片があった。「ねえ、それ何?
」「ああ、支払期限の過ぎた都民税、健康保険、水道代、ガス代、電気代、マリモのツケ」「ふうん」「ジーパンでベッドに入るなよ。脱がせたらその下まで脱がせちゃうもん」「イヤか?」マミは無言で首を横に振る。「何度もヤッたら飽きちゃうんじゃないの?」「もう飽きるぐらいの元気はないよ」画面が切り替わり、半裸でベッドに横たわる二人の姿。「マジだぜ。あきらめろよもう」「あたしって、自分だけの女にしてしまいたいような女?」トオルは何事かをボソボソと呟くが(ここも録音の劣悪さゆえに何と言っているか全く判別できない)、二人は引き寄せられるように再び唇を重ねる。
この、生活の困窮(税金や光熱費の滞納)と、刹那的な肉体の交わりが同列に語られる日常のリアルこそが、80年代半ばの若者たちが抱えていた「出口なき閉塞感」を何よりも雄弁に物語っている。そして映画は、本作における最もエモーショナルで、最も残酷なダイアログへと突入する。ジョー山中の1オクターブのソウルフルな歌声がスピーカーから流れるバー。マミが来店し、ママの高瀬春奈が彼女を迎え入れる。マミは酒をすする手を止め、絞り出すように問いかける。「ママ、聞いてもいいですか? 生きがいってわかります? 履歴書って書いたことありますか? 家族欄に誰も書く名前がないんですね。
父親が外人だから仕方ないけど、ママが愛した人だもの。結婚して子供いっぱい作って、履歴書の家族欄全部埋めてやるんだって。子どもはすぐ出来たけど結婚してもらえなかった。だからあたし……」このセリフの持つ重苦しさ。近代日本社会において、「履歴書の家族欄」というシステムが、いかに個人の存在を規定し、そこから排斥された者を透明化してきたか。マミというキャラクターが背負う「混血の悲哀」が、この一つの調書を巡る言葉によって爆発する。「トオルの名前書いちゃえば?」「本当に?
」「大丈夫」「ありがとう、もういかなきゃ」お勘定を払おうとするマミに、ママは「ツケとくわよトオルに・・遅れるわよ」と言い、マミは「すみません」と頭を下げて店を去る。高瀬春奈は、彼女の背中を見送りながら、手元にあった紙飛行機をどこへともなくそっと飛ばす。その紙飛行機は、彼女たちのささやかな希望が、決してどこにも辿り着けないことを予言するかのように、暗闇へと消えていく。第4章:土砂降りの黙示録――「日本人…だよね」という刻印ここから、映画は破滅的な濁流となってクライマックスへと突き進む。バーの店内、マミがキープされたボトルの中に、ある「鍵」をポトリと落とす。
その瞬間が、美しいスローモーションで捉えられる。外は激しい土砂降り。マミは白いビニール傘をさし、あてもなく歩く。再びバー。サングラスをかけたままの内田裕也が、そのボトルを引き寄せる。中には鍵が入っている。しかし彼は何一つ表情を変えず、構わずにグラスに酒を注ぎ、一気に飲み干す。この、言葉を必要としない「男と女の、あるいは犯罪の決着」の付け方。内田裕也という存在は、やはり本作において、マミの過去であり、逃れられぬ「夜の法」そのものなのだ。土砂降りの雨が激しく地面を叩きつける公園。ジャングルジムの傍らで、トオルは内田裕也を一方的に、狂ったように殴りつけている。
殴打の音が雨の音にかき消されていく。公衆電話のボックスから、マミはトオル宛に必死で電話をかけているが、呼び出し音だけが虚しく響き、誰も出ない。雨はさらに激しさを増し、観客の心をも引き裂くように画面を白く染め上げる。泥まみれになり、地面に這いつくばる内田裕也を、マミはついに見つける。駆け寄るトオル。泥と雨のなかで、マミは自己のすべてを呪うように、堰を切ったように告白し始める。「混血を理由に、どこへ行ってもいじめられた。私は私生児。頭悪いし、協調性ゼロ、男何人も知ってる。料理は下手だし、朝は起きれない。……子供だってもう産めないよ!
」己の欠落をこれでもかと突きつけるマミ。社会から、血統から、女としての機能からすらも拒絶されたと叫ぶ彼女に対し、トオルは無言で近寄り、そっと後ろからタオルをかけてやる。そして、下半身を丸出しにしたまま泣き崩れるマミを、愛おしそうに、そっと抱きしめるのだ。そのトオルの胸の中で、マミは消え入りそうな小声で、こう呟く。「日本人・・・だよね」この一言の持つ、戦慄的なまでの重み。どれほど拒絶され、どれほど泥に塗れようとも、彼女は自分が「日本」というこの排他的な共同体に繋ぎ止められていることを、トオルという粗野な男の肉体を通して確認せずにはいられないのだ。
これは愛の告白ではない。己がこの国で生きていくための、生存の、血の確認なのだ。いつものバー。ステージに立つマミは、これが本当の最期であるかのように、マイクを握る。「どうもありがとうございました。今晩は私のラストショーです。長い間私を応援していただいてどうもありがとうございました。最後に歌うのは私の一番好きな歌です。To The New World」それは冒頭で歌われたのと同じ曲、ジョー山中が1977年に発表した名曲「新しい世界へ(TO THE NEW WORLD)」のカバーである。
正直に評するならば、ジョー山中が持つ圧倒的なソウル、天を衝くような歌唱力に比べれば、服部まこの歌声はあまりにも線が細く、お世辞にも上手いとは言えない。相手が悪すぎるのだ。しかし、時折涙で声を詰まらせ、音程を外し、途切れ途切れになりながらも歌い続けるマミの姿には、技術を超えた「生の証明」が宿っている。客席の片隅で、内田裕也が静かにその歌声を聞いている。
Challenging the new world in my way, I believe in my wayDon't care what they say, One by one, just stepping on the ground.Oh-To the new world, Oh-To the new world...新世界へ、私のやり方で。誰が何と言おうと、一歩一歩、この大地を踏みしめて。マミが絞り出す歌詞は、そのまま彼女の絶望的な祈りとなってバーの空間を満たす。
それにしても、やはり登場人物全員の声が小さく、滑舌が悪く、何を言っているのか本当に分からない。幾度となく巻き戻しボタンを押し、音量を上げ下げした観客は、結局のところ内田裕也がマミの「何」だったのか、愛人だったのか、実の父親の代理だったのか、その明確な答えを与えられないまま、映画の終幕へと引きずり込まれる。結説:成田ビューホテルの霧のなかで――置き去りにされた「新世界」ライブを終えた翌朝、物語は唐突な決別を迎える。バーの外、夜明けの冷たい空気のなかで対峙するトオルと内田裕也。内田がぼそりと呟く。「ニッポン最後の夜だ」二人は無言で見つめ合う。
内田がそっと、大きな手を差し出す。次の瞬間、突き出された拳のカットで画面が静止(ストップモーション)する。言葉などいらない。無言のまま、ヤクザ的な、あるいは無頼漢同士の奇妙な「和解」と「別れ」が、男たちの間で成立する。バイクにマミを乗せ、トオルは激しく加速する。「ねえ!どこ行くの!東京帰るんじゃないの~ねえ!どこ行くのトオル!」必死にバイクの後ろから抵抗し、叫ぶマミ。しかしトオルの背中は微動だにせず、バイクが辿り着いたのは、日本の「境界線」そのものである成田ビューホテルであった。ここで、二人は映画の根幹を揺るがすような、極めて重要そうな会話を交わす。
しかし、断言しよう。ここがガチで全く、これっぽっちも聞き取れないのだ。テレビのボリュームを60にまで跳ね上げ、耳をすませても、低音のノイズと環境音にかき消され、ただ断片的な単語が虚空を舞うだけである。「買ってくれるって言ったじゃないか」「ナントカは金で買えねえんだよ」……。ロビーでは、内田裕也が静かに待っている。トオルはマミに向かって冷たく放つ。「負けたら帰って来いよ」。マミは悲痛な表情で「帰ってなんかこないよ」と言い残し、内田の元へと歩み寄る。結局のところ、内田裕也の正体は最後までよく分からない。誰か説明してくれよ!
と叫びたくなるほどの不親切さのなかで、トオルはマミを成田に、つまり日本からの出国口に完全に置き去りにする。バイクのエンジン音が轟き、トオルは一人、去っていく。画面の上空を、轟音を立てて離陸していく巨大な飛行機。マミは新世界(アメリカか、あるいは別のどこかか)へと羽ばたいたのか、それとも内田という闇に連れ去られたのか。ジョー山中の「GOIN' HOME」の哀切極まるメロディ(「戦国自衛隊」の夜這いシーンでも効果的に使用された)が流れるなか、バイクを走らせるトオルの表情がアップになる。その顔は険しく、眉間には深い皺が刻まれている。
奥歯で何かを血が出るほど噛みしめるような、圧倒的な後悔と苦悶。彼はバイクを道端に一時停止させ、今にもワンワンと泣き出しそうな顔を見せる。そして彼は、ポケットから目薬を取り出し、瞳に差す。その、涙を偽装するかのような、あるいは現実の涙を洗い流すかのような、トオルの歪んだ顔のまま、映画は残酷なストップモーションで幕を閉じる。スタッフロールが静かに流れ終わり、観客が呆然自失とするなか、最後に画面に映し出されるのは、一枚の古い白黒写真である。
そこに写っているのは、米兵らしき外国人の男と、いわゆる「パンパン(街娼)」と呼ばれた戦後の不条理を生き抜いたマミの両親の姿だ。この映画の制作経緯は、今なお深い謎に包まれている。混血のシンガーという、1985年当時においてすら前時代的とも言えた「戦後の傷跡」を、なぜ高橋伴明はこのタイミングで、これほどまでに暴力的な熱量で描かなければならなかったのか。ジョー山中自身もまた、混血という出自を持ち、その圧倒的な歌唱力で日本のロック界を駆け抜けた男だ。
本作は彼へのオマージュであり、同時に、排外主義的な空気が再び不穏に高まりつつある現代社会においてこそ、歪な鏡として機能する作品なのである。外国人技能実習生を巡る現代の凄惨な搾取や、地続きの差別構造を予見していたかのような、この1985年の不発弾。そしてミャンマー出身の小6の女の子トンちゃんは最高に素晴らしい。確かに本作は、プロットの整合性という意味では破綻しているかもしれない。若松孝二監督の『エロティックな関係』(1992年)が放っていた、あの無駄に豪華なキャストを配置しながらも徹底的につまらなく、しかし奇妙な磁場を持つあの感覚と共鳴している。
あるいは高橋伴明自身が参加したオムニバス映画『危ない話』(1990年)のなかで、最も退屈と評されたエピソード「あの日にかえりたい」に見られる、あの執拗なまでのバイク走行シーンの退屈さと同質のものがここにはある。関根恵子との結婚によってハングリー精神を失い、丸くなったという冷ややかな評価も一理あるかもしれない。しかし、この映画には「内田裕也」という絶対的な劇薬が投入されている。彼が画面の端に立ち、無表情でタバコを吸い、マミの肉体を無言で貪る、その映画的凶暴性。
それ目当てに鑑賞したとしても、我々は十分に、この1万2000字の狂気にも似た熱量でお釣りが来るほどの「得した気分」を味わえるはずだ。言葉が通じない世界で、それでもなお肉体と言葉の残骸でコミュニケートしようとした者たちの、これはあまりにも美しく、圧倒的にストレスフルな、時代の遺書なのである。