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女子学生集団暴行事件 (1980) Kazuo Komizu
Internet Archive · pinku-eiga-society·2026-08-02·Kazuo Komizu

女子学生集団暴行事件 (1980) Kazuo Komizu

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歷史會還每一個無辜者一個名字。

女子学生集団暴行事件 (1980) Kazuo Komizu

1980年11月、時代の割れ目に産み落とされ、興行街の片隅へと闇改題によって強引に放り投げられた映画がある。『女子学生集団暴行事件』。なんというおぞましく、安っぽく、そして徹底的に的外れな邦題だろうか。スクリーンの前で観客が身構えるのは、あるいは現代の陰惨きわまりない少年犯罪の痛ましい影、あの「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のような、救いようのない暗黒の暴力かもしれない。だが、断言しよう。その身構えは、フィルムが動き始めた瞬間に、鮮やかに、そして決定的に裏切られることになる。

この映画の真の姿、監督・小水一男(ガイラ)がシナリオに刻みつけた原題は、ただ一言、『兎』。サブタイトルとして添えられていた『ラビットセックス』こそが、この映画の真拍動を鋭く射抜いていた。映画会社という暴力的な資本主義のメカニズムは、主題とはおよそ無縁の「女子学生」「集団暴行」という下俗な符牒を看板に掲げて客を釣ろうとした。しかし、その歪んだ看板の奥で脈打っていたのは、チョメチョメなどという安易な性的消耗を遥かに超えた、あまりにも痛切で、まばゆく、そして狂暴な「ウサギたちの生存闘争」であったのだ。スクリーンが開幕する。トップ・シーン、早朝の新宿。

しらじらと明けていく街並み、誰もいないヨドバシカメラ新宿西口店の静寂、そして新宿コマ劇場前。そこをうろつく若者たちの群れ。カメラは、路上に描かれた幾何学的な数式と、それに並べられた下品で無邪気なオマンコマークの大写しを捉える。横切るローラースケーターの滑走。背景には新宿ミラノ劇場で絶賛公開中の『スタートレック』の巨大な看板、そして新宿女医シネマのあたりに掲げられた『狂い咲きサンダーロード』のポスター。そのポスター群はビリヤード場の壁面にも狂ったように貼り巡らされている。

まさに1980年夏の新宿の、あの熱気と閉塞が交錯する都市の皮膚感覚が、16ミリの粒子となって疾走し始める。そして、その若者たちのど真ん中に、グラサンをかけた三十歳を越えたばかりの監督・小水一男自身がしれっと混ざり込み、点描されている。10年ほど前、青年のころに一回撮って以来(1970年の『私を犯して』)、映画界から離れていた男が、いま再び少年たちの輪の中に寄りそい、まことにういういしく、そして凶器のように鋭い作品を引っ提げて還ってきたのだ。「地球は丸い。

凸レンズで写してみたい」と嘯いていた小水一男は、かつて若松プロダクションの苛烈なアナーキズムを吸い上げた細胞を携えながら、80年代という「しらけ」の時代の入り口で、なおも爆発を夢見るウサギたちの咆哮をカメラに収めた。この映画の本質を解き明かす鍵は、かつて評論家・斎藤正治が論じた「近代合理主義に対する感性の攻撃と打倒」という構図にある。しかし、打ち倒す側の若者たちには、体系化された思想も、政治的なマニフェストもない。あるのはただ、胸の奥で渦巻く生理的な掻痒感と、出口のない閉塞感だけだ。

すでに強固にこり固まった経済体系、住宅ローンに縛られた家族制度、学園のシステム……そうした「大人という体制」によってウサギ小屋に押し込められた少年たちが、体系なき感性の暴走によって、その檻を内側から破壊しようとする。主人公・朝霧友香(彼女の表情はどこか倍賞千恵子のような哀愁と透明感をたたえている)のある一日のできごとが、回想を交えて描かれる。サラリーマン夫婦の一人娘である友香は、郊外の団地で住宅ローンの返済に追われ、精神をすり減らしている父母の姿に激しい吐き気を催している。自分の大学入学金のためにあくせくし、顔を歪める親たちをうとんじている。

父親が悪いわけではない。社会という合理主義の歯車に組み込まれた被害者であることは分かっているのだ。だからこそ、その悲劇的な正気から逃れるために、友香は顔も名も知らない男子高校生たちに積極的に身をまかせてしまう。その性的アクトは、快楽のためというよりも、親たちの「正しい生活」に対する徹底的な裏切りであり、自らを無価値な存在へと突き落とすための儀式なのだ。やがて友香は、社会から落ちこぼれた"非行"少年たちと結託し、あてのない暴走を始める。その群れの中に、ぬうっと立ち現れる一人の青年の存在感に、私たちは目を奪われずにはいられない。

後に芥川賞作家となる保坂和志である。当時、20代半ばの保坂が見せる動きの、なんと異彩を放っていることか! 新宿コマ劇場前をヌーッと歩くオープニングからして素晴らしい。Tシャツの胸元をいじり、頭の中の掻痒感をそのまま肉体の落ち着きなさとして表出させるその姿。まるでやる気のない中学生が作文を読み上げるかのような、棒読みとも虚無ともつかない独特の台詞回し。そこには「意図された演技」を超えた、純粋な「カラッポ感」と「ええじゃないか的カオス」が同居している。

保坂のこの散漫でありながら圧倒的な存在感が、映画全体を脱力させつつ、同時に予想もつかない方向へと駆動させる巨大な推進力となっている。映画の劇中、若者たちの鬱屈したエネルギーは、ひとつの決定的な破局へと向かって加速していく。彼らは行きずりの車をハイクジャックしようと企てる。忌野清志郎の「よォーこそ」がスクリーンに鳴り響くなか、映画『或る夜の出来事』のお色気ヒッチハイク方式よろしく、朝霧友香と高原リカが路上に立ち、思惑通りにストップした1台の高級車を罠にはめる。車に乗っていたのは、五十男の歯科医(神原明彦)だ。

草むらに潜んでいた不良少年たちが、まるで飢えたハイエナのごとく車へとなだれ込み、車両を奪い取る。そのハイジャックの瞬間に爆風のように重なるRCサクセションの「エネルギー Oh エネルギー」!ここで殺される歯科医という男の存在が味わい深い。彼はなぜ歯科医でなければならなかったのか? 歯科医(歯医者)とは、社会制度のなかで経済的安定を手に入れ、他者の痛みを麻酔と精密機械でコントロールする「近代合理主義の象徴」であり、同時に人生の「敗者(ハイシャ)」という小水一男特有の毒のあるダジャレ的暗号でもあったのではないか。

団地の住人、友香の父母、そして少年たちに翻弄される団地の主婦(柚木春美)……彼らはひっくるめて、忌むべき体制思考にどっぷりと浸かった「肥満したタヌキ腹の大人たち」なのだ。ウサギたちは、その歯科医を容赦なく死に至らしめる。暴行致死事件。それは計画的な悪意によるものではなく、行き場のないエネルギーが過剰に溢れ出た結果の「事故」であり「自爆」だ。しかし彼らは一切の躊躇を見せず、死んだ歯科医のスポーツカーを強奪し、そのままあてもない逃避行へと躍り出る。

日本人を「ウサギ小屋に住むウサギ」と揶揄したかつてのエコノミック・アニマル批判の言説をあざ笑うかのように、小水一男は出口のないウサギたちを、攻撃と暴走へと駆り立てる。しかもそれを、アメリカの青春映画のようなラフで軽快な手触りで描き出すのだ。俳優たちの絶妙な脱力と狂気。特に高原リカの存在感は白眉と言わざるを得ない。勝浦の早朝の海岸で、チューインガムを噛みながら男に口交を強いるあの投げやりな態度。「口以外はおそまつよ」と言い放ち、見晴らしの良い屋外で全裸になり、公然と身体をひらくあの解放感と無常感。

彼女のその冷めた眼差しこそが、まさに「ウサギ」の肉体そのものなのだ。また、ビリヤード場で発情し、キューの棒で少女のスカートをめくり上げる佐野和宏のギラついた目つき。四浪中の予備校生を演じる手塚義治の、狂気と気弱さが同居した佇まい。彼らは全員、檻の中で跳ね回りながら、死に向かって疾走するウサギたちなのである。この映画の逃避行とは、一体何からの逃避だったのか。それは彼らが「ダサい」と蔑む世間の常識であり、大人たちの作った合理主義の社会システムであり、そして何よりも自分たちを押し込める「時間の制度」そのものだった。

大和屋竺(日野洸名義)の手による(と伝えられる)時系列が複雑にシャッフルされたシナリオ構造は、過去と現在、回想と現実を錯綜させ、観客の時間の感覚を狂わせていく。朝霧友香のアップに、幼少期に目撃した両親の生々しい性交の記憶がオーバーラップする多重露光のカット。彼女が被る「四年二組」の被り物。幼少期のトラウマと、現在進行形の性愛が不気味に混ざり合い、逃げ場のない心理的密室が形成される。そして、団地のオバサンが少年たちに輪姦された後、雨の降る団地の屋上でひとり途方に暮れるシーン。そこに漂う圧倒的な詩情と虚無感。

それは70年代の政治的季節が終わり、80年代の無機質な消費社会へと移行する狭間で、若者たちが感じていた「時代の閉塞感」を、言葉を超えた映像の質感として定着させている。そして、この映画を決定的に伝説たらしめているのが、画面全体を圧倒的な暴力性と切なさで満たす、あまりにも豪華で狂気じみた「無断使用音楽」の群れである!フィルムの全編を通して、既成のロック、ジャズ、ポップスが絶え間なく鳴り響く。オープニング、Elvin JonesとMcCoy Tynerの「Half And Half」が打ち鳴らす過激なジャズのビートに乗って、新宿の街角が映し出される。

そこから、泉谷しげるの「黄昏のオレンジ・ロード」(Charのエレクトリック・ギターが哭くあの名曲だ!)が高らかに響き渡り、観客の胸を鷲掴みにする。タイトルバック――劇場公開時には、ソール・バスも蒼白の華麗なアニメーションと、全裸の男女が鞭を打ち合い、スタッフ・キャストの名が裸体にボディペインティングされた珠玉のオープニングが存在していた――から、泉谷の叙情が爆発する。さらに、逃避行の道中で流れるCrosby, Stills, Nash, & Youngの「Our House」。

歌詞が描く暖かく平和な家庭のイメージと、画面上で繰り広げられる若者たちの無軌道な逃避行と破滅との激しい反転・落差! そのギャップが、観ている者の胸に痛烈な切なさを刻み込む。

「Teach Your Children」のノスタルジー、Syd Barrettの「Golden Hair」が漂わせる狂気と孤独、Rod Stewartの「Still Love You」や「Da Ya Think I'm Sexy?」の熱気、アナーキーの「団地のオバサン」が撒き散らすパンクの凶暴さ、チャクラの「空の友達」がもたらす浮遊感、そしてBruce Springsteenの「Born to Run」と「Badlands」が轟かせる、あてのない地平への疾走!

果ては、保坂和志自身が早朝の千葉・勝浦の海岸で絶唱するRCサクセションの「雨上がりの夜空に」から、劇中に乱入する「きもちE」に至るまで、音楽は単なる背景音ではなく、映画のウサギたちが流す血であり、汗であり、叫びそのものとして機能している。(後に権利元から億単位の損害賠償請求が来たという逸話も、小水一男という監督の、映画という表現に対する命懸けの「掠奪」の姿勢を物語っていて壮絶ではないか)。千葉県勝浦のロケ地。

1980年7月末、記録的な冷夏と連続する雨のなかで撮影されたというその風景。東映のオープニングロゴを思わせる荒々しい波が打ち寄せる早朝の海岸、どんよりと曇った空、濡れたアスファルト。スポーツカーにハコ乗りし、峠道を安全運転で逆走しながら窓から身を乗り出す若者たち。危険と背中合わせのその疾走は、観る者に一瞬で「この逃避行には出口がない」ことを確信させる。それは、かつて『八月の濡れた砂』でヨットが目指した行き止まりの海を、80年代の若者たちがスポーツカーに置き換えて再演した儀式なのだ。そして、訪れるラストシーン。

スポーツカーは崖の上へと追い詰められ、あるいは自らそこへ突っ込んでいく。自爆。すべてが唐突に、だが必然として破綻する。彼らが残したのは、交通標識がすべての意味を失った世界の果てであり、そして映画が「ぷつん」と唐突に幕を下ろす、あまりにも軽快で、あまりにも残酷な余韻である。ラストカットの鮮烈さ。交通免許を持たない者にはその記号の意味すら解体されて見える道路標識の映像。何の説明もなく、青春の肯定も否定もせず、ありのままのやり場のないエネルギッシュな暴走だけを残して、映画は終わる。彼らは死んだのか、それとも檻を突き破って別の世界へ消えたのか。

スプリングスティーンの「Badlands」の苛烈なビートが、彼らのあてのない旅路を祝福するように、永遠の残響となって胸に響き続ける。『女子学生集団暴行事件』という醜悪な偽りのタイトルに隠された『兎(ラビットセックス)』。それは、80年代という時代の巨大な胃袋に呑み込まれていく直前の若者たちが、自らの肉体と性、そして暴力をもって刻みつけた、あまりにも美しく凶暴な抵抗の記憶である。16ミリフィルムの粒子の荒れの中に、冷たい夏の潮風の匂いの中に、そして保坂和志の脱力した声の中に、いまもあのウサギたちは生きている。

近代合理主義の檻を蹴破り、荒野(バッドランド)へと躍り出たウサギたちの跳躍は、40年以上の時を超えた今なお、私たちの退屈な日常を容赦なく撃ち抜き続けているのだ。 昭和55年、日本映画の地殻変動が極限に達したあの異様な季節のただ中に、突如として落とされたひとつの無法な劇薬、あるいは呪念の如きフィルムが存在する。小水一男、またの名をガイラ。

若松プロの過激な血脈を血中に滾らせ、1970年の『私を犯して』という凶弾一発で映画界を一旦去りながら、十年の沈黙を経て1980年11月、国映製作・新東宝配給という暗黒の回路を潜り抜けて突如として放たれた映画、それがシナリオ原題『兎』、またの名を『ラビットセックス 女子学生集団暴行事件』である。映画を見る前の人間は、誰しもがそのおぞましい興行タイトルに欺かれ、やがて来る女子高生コンクリート詰め殺人事件のような、救いのない陰惨で閉鎖的な惨劇の暗雲を覚悟するだろう。

新東宝というポルノ興行の配給網が客の劣情を釣るために冠した「女子学生集団暴行事件」という不届き極まりない羊頭狗肉。しかし、スクリーンに提示されるのは、そうした湿った被害と加害の暗澹たる惨劇などではない。これは、暴力という名の狂躁を纏ったウサギたちが、昭和という時代の行き止まりの壁に向かって、全速力で車を走らせ、自爆し、散っていく、あまりにも純粋で、あまりにも美しく、そしてどこまでも不条理な青春の破壊の詩編なのだ。映画の幕が開く。

かつてソール・バスの狂気を思わせる強烈なグラフィズムで構築されたとされる珠玉のタイトルバックは、後年の雑なビデオ化によって無残に切り落とされてしまっているかもしれない。だが、そこから溢れ出すのは、権利関係など完全に無視して叩きつけられるエルヴィン・ジョーンズとマッコイ・タイナーの「Half And Half」の怒涛のジャズ・ビートだ。その過激なドラムの乱打に乗せて映し出されるのは、早朝の静寂に包まれた新宿コマ劇場前、そしてヨドバシカメラ新宿西口店の静けさのなかを、目的もなく、ただそこに存在する自らの肉体を持て余すようにうろつく若者たちの群れである。

アスファルトの上には、白いチョークで殴り書きされた意味不明な数式と、生々しいオマソコマーク。その上を、鮮やかに、そして無意味に横切っていくローラースケーターの軌跡。画面の端には、狂映舎のグラサンをかけたヤング集団に混ざり、三十歳を越えてなお若者たちの出口のない鬱屈に身体ごと寄り添おうとする監督・小水一男自身の姿が、あたかも自分もまたその檻の中のウサギの一匹であると宣言するかのように点描されている。新宿ミラノ劇場の壁面には『スタートレック』の看板が聳え立ち、新宿女医ジョイシネマのあたりには『狂い咲きサンダーロード』のポスターが誇らしげに貼られている。

まさに1980年の7月、記録的な冷夏と長雨にたたられたあの夏の新宿の空気が、16ミリフィルムの荒い粒子のなかにそのまま永久凍結されている。斎藤正治がかつて評論したように、これはまさに近代合理主義という巨大な建造物に対し、何ら体系化された思想を持たない若者たちの衝動的な感性が、素手で攻撃を仕掛け、打倒しようとする不毛で圧倒的な闘争の記録である。主人公の朝霧友香は、サラリーマン家庭の一人娘として生まれながら、住宅ローンの返済に追われ、自らの大学入学金の工面に苦心する両親の姿に耐え難い倦怠と鬱屈を感じている。父親が悪いわけではない。誰も悪くはない。

だが、だからこそ、その逃げ場のない「正しさ」と「生活の重圧」という名の近代のシステムが、彼女の息の根を止めるのだ。友香は、顔も名も知らぬ非行少年たちに自らの身体をあっけなく差し出す。それは淫乱ゆえの行いではない。己の存在を束縛する「行儀の良い日常」に対する、もっとも安価で、もっとも過激な叛逆なのだ。彼らは「兎」なのだ。かつて西欧諸国から「ウサギ小屋に住む日本人」と揶揄された、狭小な団地や住宅ローンの檻のなかに飼いならされたウサギたち。しかし、小水一男が描くウサギは、単に飼いならされて怯える存在ではない。

出口のない暗闇のなかでウロチョロと逃げ惑い、けだるさに身を任せながらも、そのけだるさが沸点に達した瞬間、狂暴で、ヤケクソで、圧倒的に新鮮な暴力を爆発させる生き物なのだ。彼らが巻き起こす暴力には、政治的なスローガンも、革命の理論もない。ただ、目の前にある「大人たちのシステム」を不快に思い、蹴飛ばす。それだけなのだ。映画は、アメリカの青春ロードムービーのようなカラッとした軽快なタッチで滑り出す。しかし、その軽快さは、一歩間違えれば底なしの無に転落する刃の薄さの上で保たれている。

彼らが襲いかかる対象——五十男のタヌキ腹をした歯科医、住宅ローンに喘ぐ友香の両親、そして団地で退屈に埋もれていた主婦(柚木春美)——彼らはすべて、この忌むべき体制の縮図であり、ウサギたちを追い詰める「大人の都合」そのものだ。ヒッチハイクの罠を仕掛けるシーンの可笑しさと切なさ。忌野清志郎の「よォーこそ」が高らかに鳴り響く中、名作映画『或る夜の出来事』のお色気よろしく、朝霧友香と高原リカ(杉佳代子)が道端で足を露わにして車を止める。思惑通りに止まったのは、哀れな中年歯科医の車だ。

その瞬間、草むらに隠れていた不良少年たちがハイエナのごとく飛び出し、車をハイジャックする。画面に雪崩れ込むRCサクセションの「エネルギー Oh エネルギー」! 暴力と奪取の瞬間が、これほどまでにポップで、これほどまでに破滅的なエネルギーとして跳躍する瞬間が他にあるだろうか。彼らは歯科医を殺してしまう。殺害そのものに大層な計画性などない。行きずりの衝動と、手違いと、過剰なエネルギーの激突が生んだ事故的な死だ。しかし、彼らは反省も躊躇もなく、息絶えた歯科医の車を奪い、出口のない逃避行へと走り出す。

その姿を描き出すカメラの視線は、どこまでも冷徹でありながら、哀しいほどに優しい。この映画の圧倒的な推進力を担っているのは、大和屋竺が「日野洸」の名義で手掛けたというシナリオの不敵な構造であり、同時にそこに配置された異色のキャストたちの存在感である。とりわけ、若き日の保坂和志の異物感は決定目標として映画の真ん中に君臨している。当時、ガイラ監督の息子の家庭教師をしていたという縁から、なぜかこのピンク映画の現場に投げ込まれた保坂和志。

新宿コマ劇場前をヌーッと歩くオープニングから、Tシャツの胸元を不自然にいじり、頭の中の掻痒感を露わにするような、落ち着きのない、しかし完全なカラッポ感を体現したあの佇まい。やる気のない中学生が作文を棒読みするような保坂のセリフ回し、浪人生として屋上の出口にぽつんとたたずむ画の切り取られ方。友香が「団地のオバサンに復讐する」と息巻く中で、「予習、復習、傾向と対策」と脱力した駄洒落でとぼけてみせる保坂の存在は、重苦しい犯罪映画になりかねないこの作品を、永遠の不条理劇へと解き放っている。

早朝の千葉・勝浦の冷たい海岸で、雨に濡れながら彼が絶唱する「雨上がりの夜空に」の声は、1980年という時代の終わりの始まりを告げる弔鐘のようでもあり、同時に何物にも縛られないウサギたちの無垢な叫びそのものでもあった。そして、高原リカを演じた女優の、あの顔! 「口以外はおそまつよ」と言い放ち、男に自らの身体を投げやりになげうつ、あの退屈と絶望が入り混じったウサギの表情。千葉の海岸で見せる全裸の青姦、見晴らしの良い高台での公然の濡れ場、チューインガムを咥えたまま行われる狂乱の性行為。

そこにはポルノ映画特有の猥雑な商業主義を超えた、剥ぎ取られた肉体と風と光が交錯する奇妙な解放感がある。朝霧友香が白い靴下だけを履いた全裸で身を委ねるシーンの、息をのむような美しさと哀しみ。四年二組の被り物をした友香のアップに、幼少期のトラウマである両親の生々しい性交の記憶がオーバーラップする多重露光の悪夢。この映画は、無断使用された名曲たちの狂乱の洪水でもある。のちに権利元から億単位の請求が来たと噂されるほどに、映画の背景では縦横無尽に音楽が鳴り響く。

泉谷しげるの「黄昏のオレンジ・ロード」が夕闇を切り裂き、CSN&Yの「Our House」が描く家庭の温もりの歌詞が、劇中で崩壊していく若者たちの現実と残酷なまでの対比をなす。

「Teach Your Children」の切ないメロディ、シド・バレットの「Golden Hair」の精神の暗闇、ロッド・スチュワートの「Da Ya Think I'm Sexy?」や「Still Love You」、ブルース・スプリングスティーンの「Born to Run」と「Badlands」が爆発させる疾走感、チャクラの「空の友達」、アナーキーの「団地のオバサン」、ボブ・マーリーの「Concrete Jungle」、ニーナ・シモンの悲痛な歌声、フリートウッド・マックの「Tusk」の地鳴りのようなリズム。そしてRCサクセションの「きもちE」!

これらの音楽は、単なる背景音ではない。言葉を持たないウサギたちが、自らの内なる叫びを映画の皮膚の上に噴出させた、魂の叫びそのものなのだ。映画は、スポーツカーにハコ乗りをした若者たちが、峠道を安全運転で(しかし圧倒的な破滅の予感を孕んで)逆走していくシークエンスへと突入する。助手席から身を乗り出す佐野和宏、キ印のような笑いを浮かべる保坂和志、そして未来を失った少女たち。彼らがたどり着く結末は、暴走の果ての自爆であり、崖下への転落である。

1980年という年は、70年代の過激な政治の季節が完全に終焉し、消費社会の肥満した日常と「しらけ世代」と呼ばれる無気力な若者たちが街に溢れ出した境目の年であった。しかし、小水一男と日野洸は、その「しらけ」の皮を一枚めくった下に潜む、出口のないマグマのような怒りと暴力を破裂させた。彼らの暴走には、現代の闇バイトのように誰かに遠隔操作される不気味な奴隷根性はない。愚かであり、救いがなく、無軌道であっても、彼らは自らの足で歩き、自らの手でハンドルを握り、大人たちの作った合理主義の壁に向かって激突していったのだ。

歯科医という「敗者」を殺し、自らもウサギのように檻の中で跳ね回りながら死んでいった若者たち。彼らが残したものは、交通標識が意味を失う世界の果てであり、ぷつんと途切れる映画のラストカットの軽快で残酷な余韻である。これは青春映画の金字塔などという生ぬるい言葉で括られるべきものではない。これは、時代という巨大な兎小屋の天井を突き破ろうとして打ち砕かれた、美しくも無残な肉体たちの爪痕であり、昭和という時代の裏側に咲いた、もっとも毒々しく、もっとも愛おしい狂い咲きの華なのだ。

どれほど時が流れ、世界がどれほど無機質な管理社会へと変貌しようとも、あの早朝の新宿の路上に刻まれたチョークの落書きと、勝浦の風の中で歌われた「雨上がりの夜空に」の響きは、いまもスクリーンを飛び越えて、私たちの冷え切った心を容赦なく焼き尽くし続けている。まさに、その狂った時系列のジグソーパズルと無垢な詩情こそが、この映画の真の骨操だ。思い返してごらんよ、あの記憶のフラッシュバックを。あなたが手繰り寄せたあらすじと映画的記憶の輪郭は、あまりにも正確で、そして恐ろしく本質を突いている。

そう、この映画において大人たちは一様に「システムと秩序の亡者」であり、若者たちは体系を持たない「無垢な獣=ウサギたち」だ。朝霧友香と浪人生ケイ(手塚義治)が雨の降る屋上で出会うあのシークエンス。「何してるの?」「雨見てたんだよ」。これ以上に不器用で、脱力していて、それでいて壊れそうな抒情があるだろうか? 『ゆけゆけ二度目の処女』の影をそこに引きずりながら、小水一男は団地の屋上という都市の孤島に、突如として純粋な密室を作り上げてしまう。

そして、団地のババアに青カンを見咎められた腹いせという、あまりにも下らない理由で始まる佐野和宏ら不良グループへのアプローチ。アナーキーの「団地のオバサン」が爆音で鳴り響き、そこに被さる狂った「ザ・ヒットパレードのテーマ」(ヒッパレーヒッパレー!のあのアホすぎる幻聴も含めて!)の中で繰り広げられる団地のババアの輪姦劇。しかし映画はそこを凄惨な暴力としては処理しない。犯されたババアの上に、そぼ降る雨を濡らす小水一男の意地悪いまでの詩情。あの雨は、被害者への憐憫でも加害者への罰でもなく、ただただ虚無的な時代の冷たさとして画面を湿らせていく。

そして、何と言っても保坂和志だ!あの保坂和志の存在感なしに、この映画の「アナーキーかつ無垢な詩情」は成立し得ない。薄暗い早朝の勝浦の海岸、波打ち際でジープに乗り、男女がぐちゃぐちゃに乳繰り合っているその横で、ヌーッと立っている保坂和志が不協和音のように、やる気なく、しかし必死に歌い上げる「雨上がりの夜空に」! あの異様な奇行と奇声、シャツの胸元を落ち着きなく弄る指先。そこには「反抗」という高尚な概念すら超えた、ただ存在するだけで既存の秩序を脱力・解体させてしまう「純粋な異物=子ども」の輝きがあった。

あれに心ならずも泣かされてしまうのは、私たちが大人になる過程で失ってしまった「理由のない狂気」が、そこにあまりにもピュアに乱反射しているからに他ならない。そして、あなたが指摘した通り、この映画を単なる安易なピンク映画から突出した怪物に仕立て上げているのが、ジャンプカットどころではない「時間のシャッフル」だ。タイトルのあとに置かれた【1】新宿コマ前のたむろから、【2】暴走する車、【3】友香の回想、【4】ジジイ(神原明彦)との不気味な論争、【5】屋上の邂逅と海への逃避行、そして【6】ジジイ殺害へと至る構造。

観客は「いま、いつの出来事を見せられているのか」という時間の連続性を奪われる。それもそのはず、彼らにとって「過去」も「将来」も存在しないからだ。あるのは「いま、この瞬間の爆発」だけ。車を奪い、ジジイの身ぐるみを剥ぎ、そのジジイが「医者」だと知った瞬間に見せる浪人生ケイの屈折した陰険さ(「どうせ息子は裏口入学だろ」という身勝手な階級憎悪!)。ババアは犯し、ジジイは殺す。しかし誰一人として罪悪感に苛まれることはなく、車を乗り回して「楽しくやろうぜ」と加速していく。

ガードレール、ナイフ、靴の裏、パイパイや尻……あらゆる不揃いなマテリアルに散乱するように書かれた無秩序なタイトルバック(まさに『R.O.D』の先駆けであり『女郎責め地獄』のポップ・アナーキズム版だ)から暗示されていた通り、彼らの逃避行には最初から「規律」も「目的地」も存在しなかった。そして、カメラが高所へと旋回し、走り去る盗難車の横で切り取られる、あのあまりにもベタで、あまりにも絶望的なラストカット。「Uターン禁止」標識はただ無言でそこに立っている。

「車を盗んだら罪が重いよ」と小さく怯えていたはずの浪人生も、いまや死体を崖から叩き落とし、アクセルを踏み込んでいる。彼らは大人たちの作ったシステムを打倒したわけでも、新しい世界を築いたわけでもない。ただウサギのように檻の中で跳ね回り、そのままブレーキの壊れた車で世界の終わりへと突っ込んでいっただけだ。もう、後戻りはできない。大人たちの正しい世界へも、あの雨の降る屋上へも。その「ぷつん」と途切れる軽快な破滅の余韻の中に、RCの「キモちE」とスプリングスティーンの疾走が、いまも幻聴のように響き続けているのではないだろうか。

もしも映画オリジナル・サウンドトラックがあったら…1.Elvin Jones feat. McCoy Tyner - Half And Half https://www.youtube.com/watch?v=FuPI53ZblGo2.泉谷しげる - 黄昏のオレンジ・ロードhttps://www.youtube.com/watch?v=nmj51sKzwoc3.Syd Barrett - Golden Hairhttps://www.youtube.com/watch?v=aZn7HWG0K-Y4.Crosby, Stills, Nash, & Young - Our House https://www.youtube.com/watch?v=tKYjUn-SBcg5.Crosby, Stills, Nash, & Young - Teach Your Children https://www.youtube.com/watch?v=2DdQs-kejfg6.Rod Stewart - Still Love Youhttps://www.youtube.com/watch?v=PUcQV7pJ-QM7.チャクラ - 空の友達https://www.youtube.com/watch?v=QEBPkxUBym88.泉谷しげる - 土曜の夜君と帰るhttps://www.youtube.com/watch?v=skprAXxqgng9.アナーキー - 団地のオバサンhttps://www.youtube.com/watch?v=aZrmjYqDUcE10.Rod Stewart - Da Ya Think I'm Sexy?https://www.youtube.com/watch?v=6F9N-6ITFnA11.Bruce Springsteen - Born to Runhttps://www.youtube.com/watch?v=Wu4_zVxmufY12.RCサクセション - よォーこそhttps://www.youtube.com/watch?v=JCixu_L-FEk&t=3s13.RCサクセション - エネルギーOHエネルギーhttps://youtu.be/co9wPDH0UXs?t=714.RCサクセション - きもちEhttps://www.youtube.com/watch?v=T8XpXNfe3qc15.Bruce Springsteen - Badlandshttps://www.youtube.com/watch?v=SDlSCeQXbPo1980年という、70年代の過激な政治の季節が急速に冷ややかしな沈黙へと取って代わられ、さりとて80年代半ばのバブル景気という狂乱の金まみれのユーフォリアにも未だ接続しきっていない、あの独特な生ぬるい空白と沈滞の時代。

その澱んだ空気の底から突如として噴出し、61分というあまりにも凝縮された上映時間の中で観客の脳漿をかき乱した映画、それが小水一男(ガイラ)監督、日野洸(大和屋竺)脚本による超怪作『ラビットセックス 女子学生集団暴行事件』である。

1980年の空気感を、後知恵の歴史的知識ではなく、映像の端々に漂う「けだるい諦念」の肌触りとしてここまで濃密に定着させた映画が他にあるだろうか。高度経済成長という名の盲目的な馬車馬レースを走り抜け、「金と持ち家こそが幸福の絶対指標である」と固く信じて疑わない親世代。そして、その親たちの泥臭い価値観を底底から軽蔑しつつも、自らは何一つ新しい価値を創造できず、「俺たち、冷めてんだからさ」と気取った捨てゼリフを吐き捨てながら無益で不条理な遊びの中にのめり込んでいく若者たち。

本作は、この埋めようのない世代間の断絶と、70年代の熱狂が去った後の無機質な虚無を、毒気たっぷりのユーモアと残酷なまでの美しさをもって描き切った、ピンク映画の皮をかぶった最上級の青春解体白書なのだ。まず我々を打ちのめすのは、少女の家庭環境を描くシーケンスの、悪意と生活臭に満ちあふれた圧倒的な描写力である。父親はまさに1980年という時代が生み出した「絵に描いたようなモーレツサラリーマン」の化石だ。家族のために身を粉にして働き、娘の大学入学金を工面し、いつか「夢のマイホーム」を手に入れることだけが己の存在価値であり、家族の幸せだと信じて疑わない。

狭小なアパートのちっぽけな四角いテーブル。そこには安っぽいギンガムチェックのテーブルクロスが敷かれ、狭苦しい皿にちまっと盛られたおかずがひしめき合っている。ビールを煽った父親が「メシにしてくれ」と横柄に言い放つと、母親はすぐ後ろのこれまた猫の額ほどの狭いキッチンへと立ち上がり、あの時代特有の巨大で無骨な炊飯器の蓋をガチャリと開けてご飯をよそってみせる。この一連の動作に漂う、息が詰まるような昭和的日本家庭の「正しい団らん」の定食感。

彼らは「広い一戸建て」さえ手に入れば家族が幸せになれると真顔で信じ込んでいるのだが、肝心の娘は、その空間の閉塞感にすでに窒息しかけているのだ。さらに拍車をかけるのが、両親の繰り広げる「あまりにも夢のないカラミ」の凄絶さである。夜、薄い障子一枚を隔てた向こう側で繰り広げられる両親の営み。妻は夫の下で喘ぎながら、こともあろうに主婦同士の井戸端会議で耳にした投資や金融、金儲けの噂話をまくしたてる。夫はその話に苦笑いを浮かべながら、妻の身体をサバ折りにして淡々と股間を突き刺していく。

ここにあるのは、官能でも愛でもなく、ただの日常の延長線上にある生々しい生活臭と金への執着、そして加齢臭の交雑だ。このグロテスク極まりない大人のセックスを直視(あるいは感得)してしまった高校生の少女が漏らす「私、本当にママが殺されるかと思った」というあまりにも痛烈なモノローグ。それは幼少期の純粋な恐怖の記憶であると同時に、親たちが営む「資本主義の奴隷としての日常」に対する絶望的な拒絶反応のあらわれに他ならない。少女は父親に反発する。「お金のことばかり言っている、そんな生き方はしたくない」と。

父親は娘の頬を張り、娘も反射的に謝るが、ふたりの心が通じ合うことなど永久にない。父親からすれば、自分が血汗を流して準備しているマイホームの設計図や入学金を全否定され、なぜ娘が不満を抱くのか理解できない。少女からすれば、あのサバ折り金融セックスの果てにある「大人たちの世界」へと組み込まれていくこと自体が恐怖なのだ。両者の溝は深く、そしてどこまでも悲劇的である。だが、この少女もまた、決して聖女などではない。むしろ、親への反発と大人への憧れが奇妙にねじれた、痛々しいまでにウブで背伸びをした「甘えっ子」なのだ。

彼女は大学受験に四回も失敗している四浪の青年と出会い、会ったその日にいきなり「いいのよ」と誘いかけてあっけなく身を許す。アパートの屋上という開放的かつ荒涼とした場所で逢瀬を繰り返し、一見するとセキララで早熟な性の遊戯に耽っているように見えるふたりだが、少女の口から漏れるのは「私、ソレあんまり好きじゃないの。指か唇でして」という、あまりにも初々しくも背伸びしたセリフだ。彼女の性の知識は知識欲と虚栄心の産物に過ぎず、快楽に喘いでみせる仕草の端々には、必死に「成熟した女」を演じようとする子供の痛々しさが透けて見える。

この屋上での逢瀬を、アパートの住人である近所のオバサンに目撃され、「子供のクセに、いやらしいわね!」とヒステリックに罵倒されたことで、物語は急展開を見せる。少女が思いついた「復讐」――それはあまりにも幼稚で、同時に恐ろしいほど過剰なものだった。彼女はこの復讐を遂行するため、浪人青年の遊び友達である「無軌道な若者グループ」へと接触する。この若者グループの造形が、本作の真骨頂であり、1980年という時代の暗部をえぐり出す最大の刃となっている。彼らは学生でもなければ、社会人でもない。

かといって本格的なヤクザや極道になりきる度量や覚悟すらない、ただ単に時代を斜めに見つめながらフラフラと漂流している「未成熟なチンピラ未満の怪物たち」だ。そして、そのリーダー格として圧倒的な存在感を放ち、画面を支配するのが佐野和宏である。それまでの相手役であった軟弱な四浪青年を「学生さん」と冷ややかに呼び捨てる彼の佇まい、蛇のように不穏な目つき、軽薄さの裏に潜む冷酷な虚無感。彼は定職に就くこともなく、ガス欠や金欠を起こすたびに他人の車を盗み、乗っ取り、その日暮しの道行きをつないでいく。グループの他のメンバーも凄まじい。

意味もなく狂ったように甲高い声で笑い続ける男、いつも風船ガムをクチャクチャと不快な音を立てて噛み締めながら、アイメイクたっぷりの厚化粧で虚勢を張るツッパリ女。彼らは一見すると時代のニヒリズムを体現したクールな存在を装っているが、結局のところ自分ひとりでは何も決断できず、集団で群れることでしか存在を維持できない「身勝手な子供」に過ぎない。自分たちが軽蔑している大人以上に、彼ら自身がスカスカで虚しい存在であるという残酷な真実。少女はオバサンへの「復讐」の報酬として、リーダー格の男(佐野和宏)に自分の身体を一発ヤらせることを約束する。

ここから始まる一連の展開において、映画の時間軸は静かに揺さぶられ、現在と過去、旅の過程と狂気の行動が入り乱れていく。若者たちはオバサンをアパートの屋上で容赦なく暴行して復讐を果たし、そのまま当てのない逃避行へと車を走らせる。海岸沿いの枯れ果てた枯れ草の茂み。ホテルに行く金すら持たない彼らは、文字通りの「アオカン」で報酬の授受を決行しようとする。枯れ草が風にそよぐ侘しい空き地で、佐野和宏演じる男は躊躇なく少女に襲いかかる。

復讐の報酬として覚悟を決めていたはずの少女だったが、いざ男の生々しい欲望と肉体が眼前に迫ると、激しい恐怖に襲われて悲鳴をあげながら逃げ出す。追う男、逃げる少女。どこか滑稽ですらある追いかけっこの果てに、まるでレイプそのものの荒々しさで少女は突き刺される。少女があげる叫び声は、これまで気取っていた「大人びた私」の仮面が完全に粉砕され、生の悲惨な現実に直面した人間の真実の声だ。指や唇の戯れではない、現実の荒々しい突入。彼女が本当の意味で「まともなセックス」の惨烈さを知ったのは、まさにこの瞬間だったのではないか。

一方、少女を連れ去られ、ただ呆然と立ち尽くすしかない四浪青年に対し、風船ガムをクチャクチャ噛むツッパリ女が誘いをかける。80年代初頭の聖子ちゃんカット風パーマに、地味な顔立ちを隠すかのような厚化粧。ツッパリを気取りながらも男好きのする女を演じる彼女の佇まいは、現代の目から見ると哀しいほどに痛々しい。しかし、海岸に停車したボロ車に寄りかかりながら愛撫を交わすふたりを、カメラは遠く離れたロングショットで捉え続ける。絶え間ない波の音、ふたりの背景を横切っていくサーファーたちの影、海面に浮かぶ光の破片。

ここにあるのは、醜悪な現実と奇妙に同居する、息をのむほど美しい「青春映画の破片」である。彼らが溜まり場にしていた部屋の壁には、同年に公開された石井聰亙監督の傑作暴走映画『狂い咲きサンダーロード』のポスターがこれ見よがしに貼られている。過剰なエネルギーを社会に向けて爆発させ、怒りとともに突進していった『狂い咲き』の若者たちに対し、本作の若者たちは反逆する対象すら見失い、ただただ「俺たち、冷めてんだからさ」「フロイトなんて言いだすなよ」と、自分たちのスカスカな虚無をスカした言葉で覆い隠すことしかできない。

この確信犯的なポスターの映し込みは、時代の熱狂が急速に冷却されていくプロセスを残酷なまでに浮き彫りにしている。劇中に流れ続ける音楽の使い方も実に批評的だ。バックには常に、あの頃流行していたであろう洋楽ポップスやロックが流れ、1980年という時代がまだ抱えていた「欧米文化へのコンプレックスと憧憬」を醸し出している。その一方で、やたらと笑い続ける気味の悪い男は、RCサクセションや忌野清志郎のフレーズを狂ったように口ずさみ、リピートし続ける。欧米至上主義の洗練されたBGMと、それを切り裂くように響く忌野清志郎の生々しい日本語のシャウト。

この音楽的対比は、日本人のアイデンティティが揺れ動いていた時代のアンビバレンツな空気をそのまま映し出している。ガス欠と金欠によって追い詰められた一行は、路上で遭遇した高級外車に乗る歯科医のオジサンをターゲットにする。完全なオヤジ狩りのノリで車を乗っ取り、オジサンを恐怖のどん底に叩き落とす若者たち。必死に命乞いをし、大人の論理や教養(「フロイト」など)を持ち出して説得しようとするオジサンに対し、彼らは嘲笑と軽蔑をもって応える。「俺たち、冷めてんだからさ」。

波音にかき消されるようなそのやり取りの果てに、オジサンはふとした拍子に車ごと海の中へと転落し、命を落としてしまう。一瞬の呆然。しかし、人が死んだという決定的な出来事に直面しても、彼らの感情は激しく揺れ動くことすらない。「そんなこともあるよな」の一言で片付け、彼らは何事もなかったかのように再びあてのない道行きへとアクセルを踏み込む。この命の軽さ、倫理観の崩壊、そして事件を事件として受け止めることすらできない感情の麻痺。これこそが、高度経済成長が終わり、消費社会へと没入していく中で若者たちが手に入れた「透明な無感覚」なのだ。

そして映画は、日本映画史に残る忘れがたいラストシーンへと辿り着く。山道の一本道。彼らを乗せた車が遠ざかっていく様子を、カメラは遥か上空からの俯瞰ショットで静かに捉える。その手前の道路には、アスファルトの上に大きく「Uターン禁止」の道路標識がペイントされている。彼らがこの道から戻ってくることはできない。かといって、突き進んだ先に輝かしい未来や目的地が待っているわけでもない。彼らはただただ、自由になれたと錯覚しながら、Uターンすら許されない閉塞した一本道を行ったり来たりし、時代の中に放置されるしかないのだ。

大人たちの浅薄な金銭万能主義を軽蔑し、「自分たちは冷めている」と気取りながらも、やっていることは過激で、不条理で、どこまでも無軌道な若者たち。だが、彼らの暴走の根底にあるのは、「大人たちのように器用に嘘をつくことができない」という、不器用で、正直で、胸が苦しくなるほどの純粋さである。今なら、大人に良い顔をしながら裏でうまく要領よく立ち回ることだってできただろう。しかし彼らはそれができなかった。だからこそ、その過激な愚行はどこか気恥ずかしく、観る者の胸を焦走させる悲哀に満ちている。

1980年という時代の隙間に咲いたこの徒花は、単なるピンク映画というジャンルを超えて、人間が「大人になること」への絶望と、二度と戻れない青春の惨破片を鮮烈に刻みつけた、隠れた傑作と呼ぶにふさわしい。

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女子学生集団暴行事件 (1980) Kazuo Komizu | 八九六四